2018年11月28日水曜日

家具/筒井康隆

この短編も不思議な読後感を残す。

病床にある寝たきりの男が見る白昼夢、あるいは残存思念。
彼が思い続けるのは、自分を捨てた(と思っている)妻と弟が浮気をしていたのではないかという疑念だ。

その思いは、湖畔に立つ別荘の窓から、湖で全裸で泳ぐ妻の姿をカメラのレンズのような眼で眺めている弟の姿に収斂される。

その男の思念に、突然、机、花瓶、ピアノ、カーテン、ベッド等の家具の思念が入り込んでくる。

やがて、家具たちの思いは、駆け落ちをしたという箪笥と帽子掛けを探しに行くことに収斂され、同期をとるように男の思いも、自分を捨てた妻と弟が駆け落ちしたのではないかという思いに至る。

男はやがて自分にスープを飲ませてくれる初老の女は妻ではないかと思う。
しかし、真実は明らかにならないまま、男の姿は消え、湖畔から別荘も消える。

ベースにあるのは、哲学者ハイデガーの「存在と時間」の概念だろう。
人間(現存在)は、自分が死ぬと知っているから、何より自分を気遣う。自分を気遣うだけではなくて、周りの道具、例えば、机、いす(道具的存在者)も気遣う(配慮的気遣い)。そして、自分以外の他人(共現存在)に対しても自分を顧みての気遣いをする(顧慮的気遣い)。
上記の概念を具体化したような短編なのだが、静かに消えゆく命のゆらめきに、まるで詩のような美しさを感じる。

2018年11月27日火曜日

原始人/筒井康隆

まず、原始人を主人公にした小説を書こうという作者の意欲を買いたい。
言葉は当然しゃべれないし、記憶力もほとんどない。
コンピュータで言えば、一時的に記憶するRAMの領域が著しく小さい。

一人の原始人の男が、食料を奪うため、自分の父親であることさえ認識できずに老人を棍棒で撲殺し、若い女を見れば性欲を制御できず、調達した食料も忘れ、棍棒で加減して叩き、襲いかかる。
洞窟で共に暮らす女房役的な女にも飽き、若い女を締め殺そうとした女を棍棒で叩き殺す。

川で魚を捕る手法も、棍棒で水をたたき、逃げ遅れた魚を捕るという効率の悪さ。
おまけに漁が終わった頃には、女を殺したことも忘れて、洞窟に魚を持ち帰ろうとする。

そして若い男に撲殺され魚を奪われるのだが、死んだ男にはわからない。

なんと愚かな原始人と嘲る読者に、作者は最後に真理を突きつける。
彼は無明の闇から生まれ出てきて無明の中に生き、ふたたび無明の闇の中へ去っていった。すべてわれらと何ら変ることなし。
まったく、反論すらできない実に見事な結末。

2018年11月26日月曜日

ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白/ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・D. ハンゼン

本書は、ナチのNo.2 ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書の一人として働き、106歳まで生きたドイツ人の女性 ブルンヒルデ・ポムゼルさんの告白を記した本だ。

この本は、別の意味で衝撃を受けた。
あの激動の時代を、しかもゲッベルスの秘書として3年間も働いた女性が、戦後、ある意味、ナチの行った行為と自身の関わりと責任を、他人事のように否定している姿勢に驚いたからだ。

自分は職業人としてナチに仕えたが、自分自身が犯罪を犯したわけではない。
あの時代、ユダヤ人の迫害を助けるために、もっと何かをできたと人は言うけれど、きっと、その人たちも自分と同じことをしていた。

あのころと似た無関心は、今の世の中にも存在する。
テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのがわかる。
しかし、そのあとのテレビではバラエティ・ショーが放映される。
シリアのニュースを見たらかといって人々は生活を変えない。
生きるとはそんなものだと私は思う。

これらの言葉は、奇妙な説得力がある。
我々は、様々な映画やドラマや小説で、ナチと勇敢に戦った人や物語を知っているが、それは、とてつもない勇気と犠牲を強いる行為だという自覚がないまま、軽い認識で共感しているだけなのかもしれない。

むしろ、ポムゼルのように、政治への無関心を貫き、体制に逆らわず、都合の悪い事実や情報は視界の外に遠さげ、それがどんな意味を持つかも考えずに粛々と与えられた仕事を誠実に行う。
そんなサイレント・マジョリティと言われる人々が実は大多数なのかもしれない。

政治への無関心、ポピュリズム、ナショナリズムの台頭、移民の排斥。
世界の至る所で、今は第一次世界大戦後の世界に似ていると言われている。
実際、民主主義の旗手であったはずのアメリカからトランプという大統領がすでに生まれているのだ。

日本だって他人事ではない。生産性がないという理由に基づいた障害者の大量殺人事件と、自民党の若手議員がLGBTの人々を生産性がないと切り捨てた思想はリンクしている。
ナチのユダヤ人迫害の前には、同様の理由で障害者差別が始まっていたのだから。

そういった世界情勢を認める中で、自分はポムゼルと同じ生き方を選ぶことはない、と断言できるだろうか。

ポムゼルの語る言葉に対して、どれだけの反論ができるのか、語らなかった事に対して、どれだけの想像を巡らすことができるのか、この本はそういう難しいことを要求している。

2018年11月25日日曜日

本の森の狩人/筒井康隆

筒井康隆が1992年に読売新聞朝刊の読書欄に連載していた文芸批評集らしい。
今では見る影もない同新聞の読書欄に、そんな時代があったのだと読後に諸行無常の気分になった。

文芸批評とは、露骨にその人の知性と感性、世界観が滲み出てしまうため、文藝というジャンルの中ではある意味恐ろしいセクションである。
特に新聞に掲載されるものは、書く分量は制限されるし、読み出しで退屈そうだなと感じるものは、さっとめくられ、読み飛ばされる。

本書は、ハイレベルに面白い批評集である。
取り上げている本も、古典から短歌、伝記、SF、推理小説、奇書、漫画、純文学、パロディ、専門書とバラエティに富んでいる。
そして、批評の主眼がこれらの本の創作手法に置かれていることにも特徴がある。
メタ・フィクション、感情移入、不条理文学の構造、錯時法、文体、記号、パロディ、フェミニズム、マジック・リアリズム等々...
職業小説家としての意識がそうさせるのだろうが、これほど、手法にこだわった文芸批評というものを、あまり読んだことがない。

何より文芸批評を遊戯的に行い、人を楽しませようとしている。
そんな意識を批評から感じた人は、故 丸谷才一氏しか知らない。

筒井康隆の小説の登場人物である火田七瀬、唯野教授、穂高小四郎、神戸大助が語る批評があったり、筒井康隆が現実にはない作者の作品を批評とするという掟破りの批評もあったりする。

ぶさけていると思いきや、以下のようなシリアスな作者の胸の内が明かされていて、読んでいて飽きない。
なぜ日本の文芸出版市場のシェア90%を推理小説が占めているのか...そこには謎の提示と解決という最低限の面白さだけは保証されているのだ。推理小説だからと馬鹿にするだけではなく、われわれ作家はこの形式をもういちど謙虚に見なおし、自分のテーマをこの形式でいかに表現でき、一般読者に伝えることができるかを考えてみるべきだ。
以下、ぜひ読みたくなってしまった本。

アンドレ・ジッド「贋金つかい」
丸山健二「千日の瑠璃」
河合隼雄「心理療法序説」
シュニッツラー「カサノヴァの帰還」
中上健次「軽蔑」
清水義範「世界文学全集」
ジョルジュ・ペレック「人生 使用法」
藤原智美「運転士」
笠井清「哲学者の密室」
トーマス・マン「魔の山」
ロレンス「チャタレイ夫人の恋人」



2018年11月19日月曜日

胡蝶/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

玉鬘は、光君がかつて愛し、それが原因で生霊の六条御息所に殺された夕顔が遺した姫で、かつて仕えていた女房の右近の引き合いで、今は光君の邸宅 六条院に住んでいる。

この姫の美しさに、様々な男たちが心動かされ、恋文を送り付けている。
光君の弟で、妻に先立たれた兵部卿宮や右大将、そして実は異母弟である中将の柏木(内大臣 頭中将の息子)も、その中にいる。

光君は、まるで実親であるかのように、それらの恋文に対する対処法を玉鬘に教える。
男からの手紙には焦らして返事をしないほうがかえって男の気持ちをそそるとか、女は慎みを忘れて心の赴くまま情緒を知ったかぶりした対応をしないほうがよいとか、身分の下の者には、心を尽くし続ける男にはその功労を認めてあげなさい等々...

これが本当の親心から言っていれば姫の心にも伝わるのかもしれないが、そこにはライバルたちを退け、姫を独り占めしておきたいという下心があったのかもしれない。

実際、光君は思い余って、姫に添い寝したり、手を握ったりするのだが、玉鬘は涙を流したり、体を震わせる。

色男の鈍感さからか、光君はなぜ玉鬘が自分を嫌うのかわからない。

しかし、客観的に見れば、自分の親(頭中将)にいつまで立っても引き合わせようとせず、親の代わりの真似事をする一方で、その実、自分を寝取ろうと欲望をたぎらせている信頼がおけない中年のオヤジという状況だと思うのだが。

自分を迎い入れなかった姫に「けっして人に気づかれないように」と言い残すのも、解釈によっては、自分を嫌っていることを周りの人々に気づかれたらこの邸で生きていけないと、暗に脅しているようにも思える。

厭らしいオヤジにめげずに潔癖な対応をする玉鬘に一票。

2018年11月18日日曜日

ダンシング・ヴァニティ/筒井康隆

美術評論家の主人公 渡真利の半生?を描いた作品だが、これ程かというぐらい実験的にパロディ化された作品だ。

時々家族の前に顔を出す死んだはずの主人公の父親と息子、人を投げ飛ばす体格のいい妹、コーラスガールとしてデビューする娘、何故か壁に激突する癖がある友人の精神科医、取引先の出版社で鳥の格好をする美しい女性社員、主人公の快楽願望を体現したようなコーラスガールの十人組の女の子たちコロス、主人公の保守性を象徴する足に絡みつくタコ、主人公の人生の局面を見守るような存在のフクロウ。

これらのキャラクターの中でも、背後から主人公を揶揄する発言を繰り返すコロスの存在が最高である。

描かれる場面も、何故か家の前で多発するヤクザの喧嘩や軍隊の粛清、銃弾が飛び交い、地雷原を走り回る戦場、主人公が考案したフクロウダンスを踊るクラブの劇場、主人公が研究している浮世絵絵師の菱川師宣がいる万治三年の江戸の町、主人公の無意識の自我が虎となって現れる中国映画、孫娘の遊び相手のピンクアウル(フクロウ)を連れ出すバーチャルゲームの世界と、どんどん変わってゆく。

そして、まるで意図的に物語の進行を妨げるように同じような場面が3回リピートされて描かれるのだが、2回目、3回目の場面は微妙にデフォルメされたり、脱線したりと世界が無目的に多重化しているような、まるで迷路に入り込んだような雰囲気を感じる。

この物語で唯一、単一の多重化していないリアリティを感じるのは、最後に主人公の意識の中で感じる死の重みだけだ。

映画監督のフェデリコ・フェリーニが、この小説を読んだら、絶対に映画化したくなっただろうと思うような作品である。


2018年11月12日月曜日

玉鬘・初音/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

「玉鬘」は、光君がかつて愛し、それが原因で生霊の六条御息所に殺された夕顔が遺した姫(頭中将との子)玉鬘をめぐる物語だ。

母親の死後、玉鬘は乳母の夫が筑紫に赴任する際に連れていかれ、二十歳の美しい姫になっている。

その美しさは評判になり、地元の武士からも言い寄られるようになり、姫の身の危険を感じた乳母は、親族の一部とも別れ、京に姫を連れ戻ってくる。

そして、京に無事にたどり着けたお礼参りに初瀬の観音に参詣に行く途中で泊まった宿で、偶然、夕顔のもとで女房として務めていた右近と遭遇する。

右近も、かつての主人であった夕顔のことを忘れておらず、出会った一行が夕顔の関係者であることに気づく。

右近は、早速、夕顔の娘に会ったことを光君に告げ、光君は、玉鬘が夕顔に負けず美貌の姫であることを知り、六条院の東北の町(花散里)に住まわせることにする。

「初音」は、元日の六条院の様子を描いた作品だ。
紫の上とは仲睦まじい。
明石の方の娘との歌のやり取りでは、長い間、母親である明石の方とは会わず、別々に住んでいることがわかる。
花散里とは、もはや男女の関係ではないらしい。髪の毛が薄くなっている。
玉鬘は美しい容姿で、光君もこのまま娘として扱うことは出来ぬのではと危機感を覚えている。
明石の方には、優雅な気品があり、光君は別れがたく、その晩彼女の館に泊まってしまう。

光君は律儀な男で、二条東院(別宅?)に住む末摘花と空蝉のところにも挨拶に行く。
末摘花も髪の毛が薄くなり、白髪が目立ち、着るものも美しさがないが、鼻の赤さだけは健在。
尼になった空蝉は、今は光君の援助を受けて暮らしていることがわかるが、さすがに尼になってしまったので、光君も男女の話は出来ない。

自分の息子 夕霧も参加した男踏歌の一行も歓待し、六条院の繁栄が伝わってくる。

この時代、トリートメントなどもなかったから、女性の髪も傷んで薄くなってしまうこともあったのだろうか。光君の容姿は全く衰えないというのに。

しかし、玉鬘や夕霧の成長といい、物語の時間は確実に過ぎていることが分かる。


2018年11月11日日曜日

朝顔・少女/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

「朝顔」は、光君の叔父にあたる式部卿宮の娘 賀茂の齋院(朝顔の姫君)をめぐる話だ。
光君は、幼い頃から彼女を好きだったらしい。

「いったん恋をしたら忘れない心癖なので」と文中にもあるが、朝顔の姫君の父が死んだのを機に、お見舞いの手紙を何度となく送ったり、彼女と同居する叔母の見舞いにかこつけて会おうとしたりと、光君は相変わらずの振舞である。

しかし、この朝顔の姫君は、しっかりした女性らしく、今までの光君の女性関係を見て、容易に心を許そうとしない。

そんな彼女に腹が立った光君が、自分に会おうとしない理由は、朝顔の姫君の容色が衰えたからではないかという趣旨の歌を送る。

そんな嫌味にも挑発にも乗らず、彼女は「あるかなきかに色あせた朝顔」が自分であると認めるような歌を返す。

「あるかなきかに色あせた朝顔」とは、いかにも妙齢の女性にぴったりの表現だ。
こういう歌を返せるだけの知性と客観性がこの姫にはあったのだろう。

一方で、光君は夢で、死んだ藤壺が、自分との関係が世に漏れてつらい思いをして、苦しくてたまらないと訴える夢をみる。

息を引き取った女は、はじめて契りを交わした男に背負われて三途の川を渡るという。
彼女を弔うお経を唱えながら、光君はなぜか、自分は藤壺を背負いもできないだろうと思う。

「少女」は、光君と葵の上の息子である夕霧をめぐる話だ。
光君は、なぜか、自分の息子にいちはやく高い位を与えようとせず、六j位という低い階級を与え、大学寮で学問させる。その理由が、

世の栄華に慣れていい気になってしまうと、学問もしなくなる。時勢が移り、運勢が下降してきた際は、人に軽んじられ馬鹿にされるようになったとき、学問という基礎があってこそ、実務の才「大和魂」も世間に確実に認められる

というもの。
まるで、光君がやっている生き方とは正反対の生き方を強いるあたり、自分はテレビを見ながら「勉強しろ」という親と同じかもしれない。
I
この夕霧、幼なじみの姫君 雲居の雁(内大臣 頭中将の次女)と恋仲になるのだが、冷泉帝の妃選びで光君に後れをとったこともあり、内大臣は、二人を引き離しにかかる。
夕霧は、低い官位のため、雲居の雁の傍の女房達にも嫌味を言われ、親父の光君のような積極的な行動がとれない。

ただ、夕霧は、さすがに光君の息子らしく、そんなことにもめげず、五節の舞姫の踊りの際に見初めた惟光の娘に手紙を送る。

一方、光君は、六条京極に新邸 六条院を造営し、自分の想い女たちを一か所に集合させる。春をテーマにした東南の町に紫の上を、夏をテーマにした東北の町には花散里を、秋をテーマにした西南の町には梅壺中宮(六条御息所の娘)を、冬をテーマにした西北の町には大堰の方(明石の方)を住まわせた。

以上で、ようやく、上巻を読み終えたが、源氏物語五十四帖のうち、まだ二十一帖しか読み終えていない。



2018年11月5日月曜日

松風・薄雲/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

いよいよ、中巻が発売されたため、残りの章を慌てて読む。

「松風」は、光君が明石に流されていたときに関係を持った明石の御方が、光君の誘いもあり、京の都に移り住むことになるが、他の姫との出自との違いに悩み、父親の入道が、昔領地であった大堰の家を修理し、娘である御方を住まわせることにする。

明石と京の距離は、この時代はやはり遠かったのだろう。
父親の入道は、生涯の別れのような言葉を口にする。

しかし、大堰の家を訪れた光君は、明石の御方の成熟した美しさに感じ入りながらも、その姫の可愛らしさに心ひかれる。

そして、大堰の家に通うことをこころよく思っていない紫の上に対して、明石の御方の姫を引き取るので、あなたが姫を育ててほしいと頼む。

一見、紫の上の機嫌取りのようにも思えるが、姫を日の当たる場で育ててあげたいという親心も感じる。

「薄雲」では、明石の御方の姫をいよいよ光君の住む屋敷に引き取る一方、藤壺の宮が病に臥せり、亡くなってしまう。
彼女は、光君との関係をついに外部に漏らさなかったと思われたが、彼女のかかりつけの僧に対しては、冷泉帝を身籠ったときと、光君が明石に追放になったときに、祈願のために僧に真実を説明していた。

その僧は黙っていればいいものを、よりによって冷泉帝その人に話してしまう。
冷泉帝はひどく動揺し、悩んだ挙句、光君に帝の地位を譲渡したいと相談し、光君はそれは絶対に受けられないと辞退するが、誰が漏らしたのかが気になる。

このやり取りの後、冷泉帝に嫁いだ六条御息所の娘斎宮女御と光君が対話する場面があるのだが、驚いたことに、光君はその女御に対して、思いを交わしたいと口説いてしまう。
(自分の息子の嫁だというのに)

斎宮女御は、母親同様、しっかりした娘らしく、その申し出を断るのだが、藤壺の宮との事でも懲りない光君のタブー超えの病が垣間見える。




2018年11月4日日曜日

J・ハバクク・ジェフスンの遺書・あの四角い小箱/コナン・ドイル

「J・ハバクク・ジェフスンの遺書」は、乗員乗客十四名を乗せて、アメリカのボストンを出航し、ポルトガルのリスボンに向かっていたマリー・セレスト号が、1か月後、無人の状態で海洋を漂っていたところを発見される。

一体、船で何が起きたのか?
その事実を乗客の一人で、唯一の生存者であった結核症専門医ジェフスン博士が告白するという物語だ。

船では、船長の妻と子供が行方不明になり、次いで気落ちした船長がピストル自殺する事件が立て続けに起きる。それらは事故・自殺と思われていたのだが、実は...

まだ船が主要交通の手段であった時代の白人たちは、この物語を読んで戦慄が走ったことだと思う。

冒頭、ジェフスン博士が黒人の老婆からもらった黒い石の正体が、物語後半で明らかになる。

「あの四角い小箱」は、同じくアメリカのボストンを出航しヨーロッパへと向かう遠洋航路の蒸気船に乗り込んだ文筆を稼業とする神経質な主人公が、引き金がある謎の小箱を持ち込み、不審な計画を話し合う二人組の男らを見つけ、彼らが船の爆破をたくらんでいるのではないかと疑う物語だ。

偶然乗り合わせていた主人公の友人は、過去に主人公が幽霊を見たと大騒ぎした事件(真相は主人公が鏡に映っていただけ)を取り上げ、主人公の話を全く真剣に受け取らない。

それでも執念深く、不審な二人組を監視していた主人公は、ついに小箱の引き金を引こうとする二人組を見つけ、制止しようとするのだが、実は...という物語だ。

この二つの物語、とてもバランスよく配置されている。
いずれも映画化されていても、おかしくないような作品だ。

2018年11月3日土曜日

文学部唯野教授の虚構理論/筒井康隆

文学部唯野教授」の最後のほうで、唯野教授が語っていた文学理論「虚構理論」について語った内容が文藝別冊に載っていた。

筒井康隆は、「虚構理論」を「読者の側から小説に対して感情移入した感情移入論による文学史」と説明している。

1.自然主義的リアリズム・私小説的リアリズム
 田山花袋の「蒲団」に代表される日本の自然主義文学に否定的なところは、ほぼ、丸谷才一と同じ主張のように思ったが、フランスでは、遺伝や社会環境といった因果律の中で人間の本質を見出そうとするものだったという真面目な説が紹介されていて、なるほどと思った。
 「私小説の主人公のキャラクターはドラマに優先しているという点で、現代のライトノベルというジャンルに特徴的な、キャラクター小説の要素にまで繋がっている」という指摘は鋭い。

2.映画的リアリズム
 今日、「映画の影響を受けていない小説を探すのは難しい」と言い切っており、筒井康隆自身のドタバタスラップスティックも、その影響を受けていると分析している。
 小説の文章を読みながら、映画のシーンのようなイメージを頭に描いたりすることは確かに多いので、映画というツールは小説の補完的な役割も果たしているのかもしれない。
 
3.漫画的リアリズム
 漫画について「実在の人物なり動物をデフォルメした記号だとされてきたが、デフォルメした記号である人物にさえ、たとえば性欲を覚えたりする。それは記号でありながら身体性を持っているということです」という説明が興味深い。
 漫画にこの身体性に加え、文学性を持ってきた最初の人が手塚治虫だったという指摘もうなずける。

4.アニメ的リアリズム
 アニメで生まれた「おたく」や「萌え」が、次第にライトノベルのほうに流れていっていると説明している。
 「ライトノベルとは、物語というよりはキャラクターの媒体です。キャラクターを立てることによって商品化されたり、二次使用のマーケットが広がっていくわけです」という分析が鋭い。

 この講演の最後、筒井康隆は、皆にライトノベルを書くようにせがまれて困っているというような態度で締めくくっているが、本当のところは、どうだったのだろう。

 実際、筒井康隆はこの1年後にライトノベル「ビアンカ・オーバースタディ」を書いているが、実は、彼が1970年代に書き終えていた「七瀬三部作」(特に七瀬ふたたび)も、”キャラクター”が立っているという点から言えば、ライトノベルの先駆的な作品だったのかもしれない。

冒頭の「感情移入」という言葉に引っかかっていたのですが、この「虚構理論」、なにげに説明されているが、どうも、ハイデガーの哲学理論と関係しているみたいですね。