山岸凉子は、1970年代の後半から1980年代の前半にかけて、非常にとんがった作品を描いていた。
私が彼女の作品を読み始めたのは、この年代の作品からで、少女漫画でありながら知的な印象を持つ作品と繊細な絵に魅了されたのが大きい。
「ストロベリー・ナイト・ナイト」も、そんな作品の一つだ。
病院で目覚めた少女が、街を散歩する。
しかし、街にはなぜか異常な光景があふれている。
車を壊す暴徒
草むらでセックスをするカップル
息子を轢き殺され狂気のうちに走り回る母親
酒を飲み小便を垂れ流し泣いている中年男
おもちゃやお菓子を店から奪う子供たち
睡眠薬を飲んで眠る人
大音量で音楽を聴く若者
冷蔵庫の食べ物をひたすら食べる中年男
車で次々と人々を轢き殺すインテリ男
ボロボロの制服を着た警官
やがて、読者は、この街が核ミサイルが落ちる直前の状況下にあることが分かる。
救いようのない世紀末の光景。
しかし、今、読むと、山岸凉子の意図は、おそらく、今まで精神的なトラブルを抱え、病院に入院していた少女が、街を散策し、様々な人々の本性を見て、安心し、その精神的な桎梏から解き放たれる姿を描くことにあったのだと思う。
その瞬間が、たとえ、壊滅寸前の街の中にあったとしても。
彼女の作品には、そんな主人公が多い。
こんなどうしようもない状況下でも、精神的な自由をまっすぐに求めるのだ。
山岸凉子の作品に惹かれるのは、これも理由の一つかもしれない。
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