2014年12月14日日曜日

街場の戦争論/内田 樹 その2

本書では、日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国であるという事実を明確に述べている。

一つは、重要政策について、アメリカの許可なくして自主的に決定できないこと、そして、もっと重要なことは、従属国である事実それ自体を隠ぺいしていることを指摘している。

戦後70年間で、日本の従属的環境は変化していないけれど、従属的マインドは変化してきているという。

1960年代までの政治家は、自分たちは敗戦国民であり、アメリカに面従腹背する以外に生きる道がないというリアルな現実認識があった。

しかし、戦後三代、対米従属を続けているうちに、対米従属それ自体が、不本意なことでも、屈辱的なことでもなくなってきてしまった。
「アメリカに従属的であればあるほど個人においては日々の生活が快適になる。」これが従属マインドの完成ということなんだと思います。
そして、日本人の対米従属の心理を説明している。
強者によって奴隷の地位に落とされるという事実をまっすぐに見つめているかぎり主体性は揺るがない。ところが、その立場にしだいに慣れてくると、自分は自主的にこのような立場を選んだのであると思うようになる。そしてついには従属しているという事実そのものがおのれの主体性と自由を基礎づけているという倒錯したロジックを平然と語るようになる。そのとき主体性は根こそぎ破壊される。日本人は今そうなっている。
私は、このくだりを読んでいて、久々に、林達夫の著書「共産主義的人間」にある、1950年に書かれた小文「新しき幕開け」を思い出した。
私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。…私の心眼は日本の全過去と全未来をありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。
…日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことだろう――
その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと適中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がOccupied Japan問題であるという一番明瞭な、一番肝心な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。この Occupied抜きのJapan議論ほど間の抜けた、ふざけたものはない。
 終戦の5年後にして、このような風潮がすでにあったことが分かる文章だが、内田氏が指摘していることと同じだと思う。

そして、本書「街場の戦争論」では、従属国の政治目標は、「主権の回復」しかなく、そのためには「独立とはどのような状態なのか」を考えないといけない、と述べている。

また、その手がかりは、敗戦以前の、日本がまだ主権国家だった時の日本人の心の中にしかない、彼らが何を感じ、どんな風に思考していたのかを遡及的に探ることが「主権回復」のためのさしあたりもっとも確実で、もっとも筋の通った処方ではないかと述べている。

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