・レイモンド・チャンドラー 「長いお別れ」
・J・D・サリンジャー 「バナナフィッシュにうってつけの日」
・L・M・モンゴメリー 「赤毛のアン」
・トルーマン・カポーティ 「冷血」
・エミリー・ブロンテ 「嵐が丘」
・エドガー・アラン・ポー 「アッシャー家の崩壊」
そして、鴻巣と片岡が、お互いの翻訳文を見ながら、何故そう訳したのか、単語の意味や文章の構文の捉え方、翻訳に対するお互いのポリシーなどを話し合うのだが、内容的に突っ込んだものになっており、素人から見ると、翻訳とはそういうことを意識しながら行うのかという発見が幾つもあった。
特にチャンドラーの「長いお別れ」の中の、 At The Dancers they get the sort of people that disillusion you about what a lot of golfing money can do for the personality.という文章について、二人が村上春樹訳とは異なる解釈で翻訳していること、しかも、その解釈の方が村上春樹訳より合理的ということに驚いた。
また、チャンドラーの小説で、比喩が多用されていることについて、片岡が、
一人称による語りをタイプライターで記述していくとき、合いの手のようにあらわれる作者自身が、比喩なのかもしれません。Iが本来の外側で、合いの手としての比喩は、なに憚ることのない内側である、というような。と解釈しているのも、なるほどと思わせるものがある。
ちなみに、鴻巣と片岡の翻訳文だが、個人的には、片岡の翻訳文の方が上手いと思いました。
プレーンな直訳で無駄な言葉(浮ついた言葉)が排除されていて、とても、すっきりしている。
つまり、ほとんど、片岡らしい日本語で表現されているのだ。
それは、片岡が自分の言葉のキャパシティに入らないものを、容赦なく切り捨てているからだろう。
実際、片岡は、翻訳者としての自分の日本語で伝えられるのは75%と述べている。
反対に、鴻巣は、「憑依体質」と言っているが、他人の文体に100%支配される感覚で翻訳を行っているという。
翻訳専門家と小説家の違いが如実にあらわれていて、とても面白い。
なお、本書には、日本の英語教育についての批評や日本語的な言語感覚についてもコメントされている。
日本で普及している英語の検定や試験を見ると、「絶対英語を使えるようにはさせない」という固い決意のもとに作られているのではないか(笑)という疑念や、
日本人はbe動詞を「てにをは」で捉えているというコメントには、
確かに!と深く納得してしまった。
翻訳問答というタイトルを、片岡義男は、Lost and Found in Translation と訳している。
もちろん意訳だが、この本を読み終わった後に、その意味を考えると、なかなか奥深い。
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