昭和六年ごろの日本(紀伊半島 古座)とは、こんな所だったのか、と思ってしまうほどに。
貧困、多産、産婆、出稼ぎ、女中、若衆、野合、木場、女郎、朝鮮人、差別、刺青、博徒、行商…
しかし、この物語の中では、いまや社会の表側から消え去ったこれらの存在が、ひどく人間的で、懐かしいもののように思える。
この物語は、主人公の十五歳からの約二十年間の人生を、紀伊半島にある古座と新宮という閉じられた世界で描かれている。
だからこそ、その世界は人と自然、時間や思いが濃密に交錯していて、現代のパサパサとした生活とは、まるで異次元の、濃い原色の世界のように感じるのかもしれない。
だからこそ、その世界は人と自然、時間や思いが濃密に交錯していて、現代のパサパサとした生活とは、まるで異次元の、濃い原色の世界のように感じるのかもしれない。
そして、この物語を、どうしようもなく魅力的なものにしているのは、間違いなく、主人公のフサだ。
彼女は、五人の子供を産み、仲の良い夫に先立たれながらも、戦争の混乱期のなかを、たくましく生きる。
そして、彼女の強い生命力のあらわれのように、女性としての美しさを失わず、複数の男に求められ(彼女が求め)、子供を体に宿す。
一生懸命、精一杯に生きることと、男とまぐわい、子を産み育てることは、まるで同じことだというように、彼女の生き方は映る。
私の少ない読書経験でいうと、フサは、モラヴィアが書いた「ローマの女」の主人公アドリアーナに似ている。
一生懸命、精一杯に生きることと、男とまぐわい、子を産み育てることは、まるで同じことだというように、彼女の生き方は映る。
私の少ない読書経験でいうと、フサは、モラヴィアが書いた「ローマの女」の主人公アドリアーナに似ている。
0 件のコメント:
コメントを投稿