2014年9月30日火曜日

続 日本人の英語/マーク・ピーターセン

日本や外国の映画や小説のセリフを取り上げ、日本語の感覚と英語の感覚を、エッセイ風に語る内容が主です。

正直、前作の冠詞・定冠詞のようなインパクトはないが、読んでいると、それなりに役立つ内容は書いてあると思います。

個人的には、著者が日本の学生と、J.D.サリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」( A Perfect Day for Bananafish )の読み合わせをした際の話が興味深かった。

シーモアの妻ミュリエルが、母親と電話で話をしているときに、シーモアが自分のことをこう呼んでいると説明した部分

 He calls me Miss Spiritual Tramp of 1948," the girl said, and giggled.

"Tramp"の持つ意味は、身持ちの悪い女(あばずれ・無節操)・売春婦

野崎孝 訳では、以下のとおり

「1948年度のミス精神的ルンペンですって」 娘はそう言うとくすくす笑い出した。

(ルンペンということばも、どれだけ分かる人がいるだろう。もはや死語ですね。浮浪者とか、乞食の意味です)

この台詞は、キリスト教徒である著者からみると、人間として侮辱されたに等しいほど、相当にきつい言葉であり、読者からすると、夫がここまで妻を痛烈に批判する言葉は、読んでいて、ドキッとしなければならない部分であるというのが著者の印象であったが、日本の学生たちは普通にスルーしてしまったらしい。

著者曰く、このシーモアが妻に対して持った軽蔑は、信仰の厚いキリスト教徒であれば、共感できるものらしい。

しかし、私自身、(原文と野崎孝 訳のギャップもあるとは思うが) この台詞に強い印象を覚えた記憶がない。

仮に、Trampの訳語を、“ルンペン”から“あばずれ”、”無節操”に変えても、シーモア特有の皮肉めいたことばという程度の印象しか、やはり持てないような気がする。

わたし自身、言われたら、ちょっとムッとするかもしればいが、ミュリエル同様、なかなか面白い表現だと笑ってしまうかもしれない。

宗教性によって言葉が与えるインパクトも変わるんだ。そう実感しました。

それ以外で印象に残ったのは、細々とした実用的な知識です。以下、箇条書き。

・The Japanese/個人差を認めなくてよいとする態度

The Japanese have to learn the importance of a level playing field in international trade.

ここでのThe Japaneseは、一人も例外なく、全ての日本人を指す意味らしく、アメリカ人が日本人を評して言う際に、このようなことを言うらしい。

一方、アメリカ人自身については、以下のように、そう思わない人もいるという多様性の余地を残した表現をしている。

Americans believe in giving everyone an equal opportunity to succeed.

・英語にもある漢語と大和言葉

 ラテン系は、漢語っぽい。造語的。
 アングロサクソン系は、大和言葉っぽくて人間くさい。

 例えば、

   ラテン系                アングロサクソン系
 submit/~を提出する        turned in/~を出しました
 reconsider/~を再考する     take it over/~を考え直す
  enter/入りたまえ         Come on in/さあ、どうぞ、どうぞ


・hear(耳に入る受け身の聞く)とlisten(自ら収集する聴く)

・see(経験的な見る)とlook(一応目を通す視る・看る)とwatch(何をして過ごしていたかという観る)

・found(ただ出会った)とdiscover(探していたから見つかった)

・使役動詞made/let/had/get
 madeは強制的な意味(無理やり~をさせる)
 letは~をすることを許す(~をさせてあげる)
 hadはビジネス的な意味あい(~してもらう)
 got someone to do(説得して~をしてもらった)

・やさしいにもいろいろな表現
 nice(一般的なやさしい)
 good(物理的に物惜しみしない)
 kind(一般的な美徳)
 gentle(特別な愛情を感じる)

2014年9月29日月曜日

チェンジ・ザ・ルール!/エリヤフ・ゴールドラット

「IT投資によるテクノロジー装備だけでは、利益向上にはつながらない。なぜなら、何もルールが変わっていないからだ」というのが、本書のテーマといっていい。

IT投資をして、企業にどんなメリットがあるのか、突きつめていえば、「利益がどれだけ増えるのか」という疑問に答えるのは、意外と難しいのかもしれない。

本書でも、ERPソフト開発企業のCEOとグループ会社のシステム・インテグレーター企業のCEOが、突然、顧客から問いただされる。お宅のソフトを導入して、結局、利益はいくら増えたのか?と。

二人のCEOは、「企業活動が一元把握できる」、「決算レポートの作成が大幅に短縮できて、コストや作業が大幅に削減できた」、「トランザクションの処理コストが減った」ことなどを主張するが、顧客は納得しない。

この点について、本書に面白い記述がある。

企業のトップマネジメントが何を考えているか、知る由もない社員たちは、コンピュータシステムの専門用語を使って話し、
中間管理職のマネージャーは、生産性向上、コスト削減、リードタイム短縮といった用語を使って話し、
トップマネジメントは、純利益や投資収益率というような用語を使って話す。

この三階層の人々は、各々、別の用語を使っていて、実はお互いの用語が理解できていない。
特に社員や中間管理職は自分のフィールドの用語を別の用語に変換しなければならないという話だ。

二人のCEOは、自分たちのことばでは顧客を納得させることができず、数多くの導入効果(インボイスの印刷ミスの削減まで)を20個拾い上げたが、結局、顧客に説明できそうなものは3個だけだった。

この事をきっかけに、ERPソフト企業のCEOは、自分たちのソフトを使って本当に業績改善を実現できた企業は、ごく一部の企業であることに気づき、最も改善した一社のCEOに話を聞く。

そして、本当に利益を上げるためには、ソフトを導入するだけではなく、「古いルール」を見直さなければならないことに気づく。

「古いルール」とは、分かりやすく言うと、「部分最適化ルール」と呼ばれるもので、まだ必要なデータや情報が全て用意されていない状態で、意思決定をしなければならなかった際に活用されていたルールの事だ。
ERPソフトというものは、企業活動の全体最適化を目指すものだから、必然的に「古いルール」は適合しなくなり、最大の制約条件になってしまう。

この「古いルール」を取っ払って、新しいルールに変更することは、一般的には、ERPソフト企業、SIerの役割ではない。そして、言うほど簡単なことではない。

本書でも、顧客から、現場の幹部社員を説得することを、ERPソフト企業のCEOが頼まれることになる。
CEOは、顧客の批判的な幹部社員に対し、現状のルールを変更しないことによって生じた現実の問題を認識させ、新しいルール(基準)を自分たちに検討させ、決定させるように、巧みに誘導する。

ERPソフト企業のCEOは、これを契機に、「単なるテクノロジーを売るという考え方から、バリューを売る」という経営方針にシフトし、顧客の業務に踏み込んだ提案を行うことで、次第にシュリンクしてゆく売上を倍増しようと決意する。

これは、ちまたで言われている“ソリューション(解決方法)”の提供と同じ意味だろう。

日本のIT業界でも、“ソリューション”ということばが氾濫しているが、この本のような目覚ましい利益改善を行った事例はごく稀な事なのではないかと思う。

そして、このような働きを見せたERPソフト企業に、顧客は、さらに大きな仕事のチャンスを与えることになる。

ゴールドラットの本は、最初に興味本位で読み始めたが、意外と面白い。

本書では、今や懐かしい“西暦2000年問題”が話題として出てくる。
2002年当時の本ではあるが、今読んでも、大きな差異はない。

それは、この本がIT投資の本質を捉えているからだと思う。

2014年9月28日日曜日

NHKスペシャル シリーズ東日本大震災 私たちの町が生まれた ~集団移転・3年半の記録~

東日本大震災で、津波によって壊滅的な被害を蒙った宮城県岩沼市の、新しい街づくりの試行錯誤が紹介されていて、とても興味深い内容でした。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0927/

被害にあった多くのひとたちは、仮設住宅での生活を余儀なくされたが、市が用意した海から離れた内陸の田んぼ約20ヘクタールを約2メートルかさ上げして造成した土地に、ようやく、自分の家を持つことができるようになった。

震災から3年半、人口1,000人を超える被災者の集団移転としては、異例の速さらしい。

番組では、その秘密を探っていたが、岩沼市では、震災発生直後に避難者を同じ集落ごとに同じ避難所に集まるよう指示していたらしい。

この恐ろしいほど、先見的な指示を出した前市長は、阪神淡路大震災のサポートを経験した際に、気心が分かった人々の助けがあることが、いかに困難を乗り越えることに大きな役割を果たすかということに気づいていた。

これにより、多くの住民は、震災直後も、仮設住宅に移ってからも、同じコミュニティ、結びつきを壊さず、生活することができた。

その後の岩沼市の対応もすばらしく、街のデザインを住民に押しつけることなく、街づくりの専門家を招き、グループに分かれ、住民ひとりひとりの意見や希望を出し合い、模造紙に付箋で貼りつけ、共通するキーワードを探し出し、それをもとに街のデザインを白地図に描き、模型を作り、自分たちがどのような街づくりを望んでいるのか、少しずつ明らかにしていく作業を行っていた。

街を囲むように防風林のイグネを植える
住宅を通る道は不自然な直線道路ではなく緩やかなカーブを道路にする
人々が集まる公園は、子どもたちが遊びやすい環境にするために芝生を植える
多くの老人が住む公営災害住宅は人々とのコミュニケーションが分断されないように置く

さまざまな意見や配慮がなされた理想的な街のかたちが見えてきた。

この作業を行う検討委員会は20回を超える回数をかけて行ったという。
しかし、この一見遠回りにみえる方法が、多くの住民の合意形成を速やかにまとめることに繋がったらしい。

ここまでの岩沼市の対応は、ほぼ満点だが、現実はそうもいかないらしく、残念ながら、市が最終的に住民たちに提示した街づくりの案では、イグネは街路樹に、芝生の公園は、土の公園に変わってしまった。ほかの地区とのバランスや予算が取れないというのが大きな理由らしい。

しかし、この後の住民の対応が素晴らしい。

彼らは、妥協せず、市に頼らずに、自分たちの負担で、イグネと芝生を植えることを決断し、実行したのだ。
番組の最後は、150人近くの老若男女が公園に芝生を植える場面が映っていたが、自分たちの住む街に、これほどの思いと力を結集し注ぐことができるなんて、何かドラマをみているような気持ちになった。

2014年9月22日月曜日

理科系の作文技術/木下是雄

物理学者である著者が、理科系の研究者・技術者・学生のために、論文・レポート・説明書・ビジネスレターの書き方や、学会講演のコツなどを説明した文章読本。

本書では、理科系の文書の特徴は、読者に伝えるべき内容が、事実と意見にかぎられていて、心情的要素を含まないことにあると述べている。

そして、そのような性質をもった理科系の文書を書くときの心得として、

・主題について述べるとき事実と意見を十分に精選し、

・それらを、事実と意見とを峻別しながら、順序よく、明快・簡潔に記述する

ことと要約している。

これは、特に理科系の仕事をしていなくとも、ビジネス文書を書く人であれば、誰にでも役立つ心得と言っていい。

文章には、poetryを含んだ文学的な文章と、論理性と簡潔明快を必要とする実務的な文章の2種類があるが、一般の人が社会生活で読み書きを求められる文章はどちらかといえば、圧倒的に後者だ。

しかし、日本の国語教育が上記の必要性に対応しているかは、あやしい。

以前、丸谷才一氏が、日本の大学入試試験の国語の問題が、あまりにも文学趣味に偏向していることを批判していたが、本書においても、日本の学校における作文教育は文学に偏向している点を指摘している。
遠足についての作文は、「どこに行って何をし、何を見たか」がどれほど正確に、簡潔に書けているかによってではなく、書いたこどもの、またその仲間の心情の動きがどれだけ生き生きと描かれているかによって評価される。
この本の著者は、上記の作文教育の必要性を認めながらも、「正確に情報をつたえ、筋道を立てて意見を述べることを目的とする作文の教育――つまり仕事の文書の文章表現の基礎になる教育」 の必要性を述べている。

本書で述べられている数々の文章作成の技術の中で、わたしにとって参考になった点は、以下のとおりでした。

・重点先行主義

 書き出しの文章を読めばその文書に述べてある最も重要なポイントがわかるようにする

・はっきりと言い切る姿勢

 「であろう」「思われる」「ほぼ」「約」「ほど」「ぐらい」「たぶん」「ような」「らしい」といった類の言葉をできるだけ削る

・まぎれもない文を

 一義的にしか読めない文、意味が二通りにとれない、誤解されない文を書く

・受け身の文を避ける

 「と思われる」「と考えられる」といった受け身の文は、単に「と思う」「と考える」という能動態の文に変えたほうが、文章が短くなり読みやすくなるとともに、主体が「わたし」であることが明白になる

このほかにも、学会講演のコツ――プレゼンテーションの極意が書かれていて、三十年前の本ではあるが、今読んでも役に立つ内容が書かれていると思った。

意外と、自分は文章を書く技術に自信があると自負している文科系の人にこそ、最適な本かもしれない。

2014年9月21日日曜日

終物語 中/西尾維新

本書は、猫物語(白)の事件と同時期に、阿良々木暦と神原駿河が巻き込まれていた別の事件の物語だ。

吸血鬼である忍野忍(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード)の最初の眷属であった"初代怪異殺し"が復活し、忍野忍に復縁を迫るという、ある意味、男女関係のもつれみたいなものが物語の根本なのだが、吸血鬼化した彼が復活することで、"この街"の安定が乱れるのを阻止するため、臥煙伊豆湖とバンパイア・ハーフのエピソードが、"初代怪異殺し"の完全復活を阻止しようと、阿良々木暦と神原駿河に仕事を依頼するところからはじまる。

猫物語(白)で謎だった以下の事柄

羽川が野宿をしようとした学習塾跡のビルが、なぜかボロボロになっていたこと、

ビルが火事になった時の様子、

阿良々木が神原に依頼したこと、

猫物語(白)で、羽川翼が遭遇していた臥煙伊豆湖とエピソードが当時、何をしていたか、

羽川翼の自撮り写真を阿良々木が受け取った際の状況、

阿良々木が羽川翼に駆けつけた際、なぜ、彼の服がボロボロになっていたか等

が、明かされる。

正直なところ、物語としては、忍野忍と神原駿河の喧嘩の場面、阿良々木が神原に頼まれて買ったBLの本と、臥煙伊豆湖似の熟女写真集が、それぞれ、エピソードと臥煙の手元に渡ってしまったしまったというオチ以外は、今一つという印象だった。

特に、"初代怪異殺し"という男と、忍の関係が、どんなものだったか、リアリティを感じるほど、深く語られておらず、平板で奥行きがないと感じたせいだと思う。

でも、たぶん、アニメだったら、そこそこ面白いものができると思う。

これで、ついに全部読み切ってしまった。
しかし、なんと、続・終物語という本が、今月、出版されたらしい(どんな内容なんだろう)。

話がずれてしまうが、どんな内容なんだろうと言えば、本書に出てくる 山本周五郎の小説「美少女一番乗り」も、とても気になる(題名がすごい)。

2014年9月20日土曜日

実践 日本人の英語/マーク・ピーターセン

この本は、日本人が書きがちな、ちょっとおかしな英文、下手な英文を見本にして、何が悪いのか、何が野暮ったいのかを分かりやすく説明している本なのだが、一読して、ことごとく、自分が書いてきた英文が見本になっているのではないかと錯覚をおかしてしまう程、私にはぴったりの本だった。

200ページ程の薄い岩波新書だが、以下、私がためになった点を羅列してみよう。

・「AのB」を表現するときは、カンマやin、toで代用し、of の多用を減らすことができる

・副詞(only,just)は、文頭でなく、修飾する語の直前に置く

・practicallyは、「実際には」「実用的に」より「ほとんど~も同然」の意味が一般的であること

・接続詞(because, and, since, as, so, for)は、因果関係の強弱でいうと、soがbecauseやsinceより因果関係が強く、andが緩いつながりには最適であること

・as,forは、文章などフォーマルな場面で用いるのに適していること

・so と veryの使い方

・As a resultは強い因果関係がある場合のみ

・becauseは、通常、単独の文章でなく、従属節でしか用いないこと

・I think は、意見を述べる場面でもないのに使用すると不自然になる

・however, for example, of course, consequently,obviously等の副詞・副詞句も、文頭に置かず、文中に置くほうが洗練された文章になること

・「等」は、and so on より、 etc. のほうがよく、もしくは、such...as、includingを使う方法もある

・今日(こんにち)は、These days より、At present, Nowのほうがいい

・分詞構文は、becauseの代わりになること

以上である。

特に接続詞について、私は、上記とは、ほぼ正反対の感覚で使用していた(soを緩い感覚で使っていた)ので、非常に勉強になりました。

読んでいて思ったのは、しかし、結局、自分が伝えたいことがなにかをよく考え、整理してから、文章を書くことが重要なのだという当たり前のことでした。

この本の中でも、「当たり前のこと」、「子供でも知っていること」を、冒頭の文章に書くことは、特に英語圏の読者には、誰のために、こんな当たり前の事を書いているのだろう?と、印象を害することになってしまう点を指摘している。

最も、読者に伝えたいことは何なのか、頭の中で吟味してから、一文を書く。

これは、日本語の文章でも同じことだと思う。

2014年9月15日月曜日

ザ・ゴール 2 思考プロセス/エリヤフ・ゴールドラット

前作で閉鎖寸前の工場を立て直した工場長 アレックスは、本作では、多角化事業の副社長(グループ子会社の統括責任者)に出世している。

しかし、このグループ子会社の経営が、投資した分に対するリターンが足りないということから、親会社の取締役会で、グループ子会社3社の売却が決定される。

その3社とは、前作でアレックスの部下であったボブとステーシー、そして、アレックスの考えをよく理解しているピートが社長として経営している子会社であった。

会社を買収しておいて、親会社として何ら支援せず、経営が悪くなったら、即、売却という、いかにもありそうなグループ企業におけるM&Aの話なのだが、売却を推し進めるジムとブランドンという極めてドライな社外取締役の存在もリアリティがある。

アレックスは、売却までの6ヵ月の間に、これら3社の業績を急激に改善させ、なんとか、売却の決定を覆そうとするため、彼の経営手法の師匠であるジョナ(物理学者)から教わった思考プロセスを用いて、この難題を切り抜けようとする。

・現状問題構造ツリー
・雲(Cloud)
・未来問題構造ツリー
・前提条件ツリー
・移行ツリー

これらが、その思考プロセスを実行するツールとして紹介される。物語中でも、アレックスの子供たちからのちょっとした要求に対する解決策として簡単な事例が、さらには、社外取締役に自分の考えを理解を説得するために書いた複雑な事例が紹介されていたが、正直、これを自分が使いこなせるのは難しいという印象でした。

でも、社外取締役が、いつしか、アレックスの説得に耳を貸してしまうように、何も考えないで経験と勘に頼る経営手法よりは、魅力的で、はるかに好感を持てました。

*この思考プロセスについて、webでも検索すると、たくさんの紹介記事を見ることが出来ます。

私が最も感心したのは、M&Aで売却しようとする企業を、as-is(あるがままの姿)で、売るのではなく、しっかりとした経営手法を持たせ、やれるとこるとまで業績を回復し、買い手にとっても魅力的な企業に改良させてから、高値と好条件で売却するというwin-winのスタンスである。

(日本の場合、業績が落ち込んだ子会社を投げ売りするのに近いのが実情ではないでしょうか? もっとも、この本に出てくるほど、子会社が業績を回復してしまったら、たぶん売却の話自体、消えてしまうのでしょうね)

新たな売却先で活躍することを想像し、(株式譲渡契約をチェックしていると思われる)弁護士に対して、「あの弁護士、何をグズグズしてるんだ!」と愚痴るボブの姿は、ある意味、成功したM&Aの理想的な姿を描いているのかもしれませんね。

2014年9月9日火曜日

ザ・ゴール/エリヤフ・ゴールドラット

今日、NHKのニュースで、走行距離が長い電気自動車の販売を開始したテスラモーターズのイーロン マスク氏のインタビューが放映されていた。

彼は、アップルの亡くなったジョブス氏のような力を持った次世代の経営者として注目されている人物らしく、彼が手がけるビジネスは、電気自動車だけでなく、太陽光エネルギー、宇宙ビジネスなど、とても幅が広い。

そのマスク氏が、このようなイノベーションを起こせているのは、自分が学んだ物理学の考え方が活きているのだと思う。物理学の物の見方は常識にとらわれることなく真実を見定めることができるから、とコメントしているのを見て、エリヤフ・ゴールドラット氏が書いた「ザ・ゴール」のことが、ふと頭を過った。

この「ザ・ゴール」では、不採算を理由に工場閉鎖を迫られた主人公の工場長アレックスが、彼の恩師である物理学者 ジョナの助言を得て、工場の生産現場の諸問題を、それまでの常識的な考えにとらわれることなく、科学的な分析に基づき解明してゆき、わずか3ヶ月の間に、工場の経営を立て直したという物語だ。

まず、企業の究極の目的は、金を儲け続けること、と潔く認めてしまうところが良い。
企業価値の提供とか、社会貢献とかより、よほど分かりやすい。

そして、その目的の達成のためには、①スループット(製品の販売を通じてお金を作り出す割合。)を増やすか、②在庫を減らすか、③業務費用(経費)を減らすという3つの方法しかない。
重要度は、番号のとおり、スループットが一番重要。

工場のスループットを最大化するためには、実際に顧客に売れるアウトプットを最大にすればよいのだが、実際には、その工程のどこかで、制約条件(ボトルネック)があり、このボトルネックの生産能力で、工場の生産量が決まってしまう。

よって、このボトルネックに改善努力を集中して、その生産能力を最大に引き上げる必要がある。
だから、ボトルネック工程の前には常に適切な在庫を用意し、ボトルネックが無動状態に陥ることがないようにしなければならない。(ボトルネック工程の停止は工場全体の停止を意味する)

面白いのは、ボトルネック工程の前に置く在庫以外の在庫を作り出す非ボトルネック工程では、無動が発生してもよいという考え方だ。つまり、作業員や機械を遊ばせておいてもよいということ。

非ボトルネック工程で人や機械をたくさん働かせても、工場の生産性は向上せず、むしろ、余剰在庫を作り出すだけで、目的に反することになってしまうことになるらしい。

工場の生産管理は、工程とアウトプットするものが明確なだけに、案外、科学な解法が馴染みやすいものなのかもしれない。

全く興味がない分野だったが、常識的な考えを一旦捨てて、科学的な見地からみると、思いもしないところに原因があることが分かるというプロセスは、なかなか面白いものだと思う。

2014年9月8日月曜日

日本人の英語/マーク・ピーターセン

英文メールを作成する際、よく悩むのは、 a と the の選択である。

本書では、冒頭で、いきなり、不定冠詞の問題について解説している。

Last night, I ate a chicken in the backyard.

昨夜、鶏を1羽 [捕まえて、そのまま] 裏庭で食べ [てしまっ] た。

原因は、 a chicken (ある1羽の鶏)と書いてしまったこと。
正しくは、 chicken(鶏肉)。

日本人的な感覚では、まず名詞があって、その名詞が特定か、不特定か、可算か不可算かを考えて、aとtheを選択して付ける。

しかし、ネィティブは、まず、a  を選択し、その次に名詞を探すという驚くべき思考プロセスが以下のように述べられている。
もし食べ物として伝えたいものが、一つの形の決まった、単位性を持つ物ならば、
"I ate a...a...a hotdog!"(あるいはa sandwich, a rice ballなど)と、
aを繰り返しつつ、思い出しながら名詞を探していくことになる。 
もし食べた物として伝えたいものが単位性もない、何の決まった形もない、材料的な物ならば、おそらく
"I ate uh...uh...meat!"(あるいはFrench bread,riceなど)と思い出していうであろう。 
つまり、aというのは、その有無が一つの論理的プロセスの根幹となるものであって、名詞につくアクセサリーのようなものではないということだ。
また、定冠詞のtheについては、日本人が余計なtheを付けたがる傾向があることを指摘している。

The international understanding is a commonly import problem in both the West and the Japan.

という文章は、読むほうからすると"The international understanding"って何?
特定の「国際理解」を指しているのか?
しかし、その後の説明が何もない…という疑問をいだいてしまうらしい。

正しい文章は、以下のとおり。

International understanding is an issue of wide importance to both Japan  and the West.
(国際理解は日本にとっても西洋にとっても様々な面で重要な問題である)

英語の「the感覚」を養うためには、正しい文章を読んで、読んで、読むこと(read,read,read)が何よりで、文脈の中で、その意味が具体的にどういうふうに限定されてきているかを丹念に分析しながら読むのが、もっとも効果的であるとのこと。

また、
a、the、ゼロ冠詞の使い分けに関してのルールは、結局のところ一つしかないと言ってもよいと思う。それは「冠詞の使用不使用は文脈がすべて」
という結論だ。

近道はないというのが、真実なのだろう。

本書は、1988年初版の本でありながら、文章も簡潔で、例文も今読んでも耐えられる内容になっている。

 a と the の使い方で、よく戸惑う方には、お勧めの本だ。

2014年9月7日日曜日

終物語 下/西尾維新

「終物語 中」を飛ばして、いきなり本書を読んでしまった。

実質、最終話を思わせる内容だったため、やはり、こういうシリーズものは、順番通りに読んでいったほうがよいと今さらながらに思った。

ということで、ここは、私が初めて知った単語の意味など述べて、お茶を濁すことにしよう。
  • デペイズマン dépaysement

    人を異なった生活環境に置くこと、転じて「居心地の悪さ、違和感、生活環境の変化、気分転換」を意味するフランス語。
    シュルレアリスムの手法の1つでもあり、意外な組み合わせを行うことによって、受け手を驚かせ、途方にくれさせるという意味もあるらしい。

    羽川 翼が、失踪した忍野メメを捜索するため、世界旅行に旅立ち、その旅の合間に、戦場ヶ原 ひたぎに、電話で、その探し方に間違いがあったという趣旨で語った言葉である。

    羽川は、忍野メメという怪異の専門家がいそうな場所ばかり探していたのだが、実は、専門家であれば、絶対に行かない場所にいたのである。
  • ジェットセッター jet-setter

    自家用ジェット機で好きな時にどこにでも行ってしまう富裕層や、世界を頻繁に旅するビジネスマンのように、ジェット機に乗り世界中を駆け巡る人のことを言うらしい。

    羽川翼が、忍野メメを、上記の絶対にいなさそうな場所から、日本に連れ戻してくるにあたり、某機関に自分の頭脳を売り、ジェット機をチャーターして戻って来たということを、後日、阿良々木 暦に述懐した際に使った言葉である。

    阿良々木 暦同様、「頭脳を売り」という言葉に、不穏な空気を感じるが、ビットコインの採掘みたいに、ある種の知能を、切り売りしてお金に換金するという仕組みは、実は世の中ですでに出来上がっていることなのかもしれない。

    しかし、羽川翼が、なんだか、スーパーウーマン的な存在に仕立て上げられてしまったところは、若干、残念な印象を受ける。

2014年9月5日金曜日

眠る人々/池澤夏樹

池澤夏樹が出した電子書籍を色々買ってみたが、「あれ、これって前に読んだ本にでてるの?」と気づいたのは、読んだ後に、インターネットで作品を検索した時だった。

「骨は珊瑚、眼は真珠」に収められた九つの短編。

表題作と「最後の一羽」だけは、記憶に残っていたが、他の七編は、まるっきり記憶がなかった。

しかし、そのせいで、新作を読むみたいに改めて、これらの作品を楽しむことができた。

いずれも、池澤夏樹らしい短編が並んでいて、今読んでも、ほとんど違和感を感じない。
まだ、この頃はセックスとか男女関係の描写が少ないなと思うぐらい。

しかし、一つだけ違和感を感じた作品があった。
今回、取り上げた「眠る人々」だ。

物語は、三十代ぐらいの男女の2組のカップルが山にある別荘に泊まった時の話で、
一組目は、舞台装置の製作を仕事にしている遼と、料理が上手い厚子のカップル。
二組目は、輸入家具、食器などの販売をしている慎介と、草花に詳しい美那のカップル。

二組のカップルは仲が良く、仕事も順調で、幸わせで成功している人生と言ってよいのだが、遼は、この幸せな状態が続いていくことに漠然とした不安を感じている。

その漠然とした不安を象徴しているのが、彼が見る水の中で眠るたくさんの人々の夢と、彼が時折遭遇するUFOの存在だ。

遼は、自分かの悩みを率直に、三人に話すが、誰にも理解されない。

彼は、別荘の近くに建っている送電線の鉄塔の下まで行き、ぼんやりと空を見上げ、現れたUFOに、自分の悩みを語りかける という物語だ。

まず、めぐまれた生活に身を任せながら、このままで本当に良いのか?という漠然と不安を抱いているという、言ってしまえば、よくありがちな中途半端なスタンスの登場人物は、池澤夏樹の小説では見かけないタイプである。

そして、彼は、その不安と、不安を感じる自分を、深く追及しない。これからも不安を感じながら幸せに生きてゆくということを、UFOに対して、語りかけるだけだ。
この“消極的幸福主義”も、あまり魅力を感じない。

しかし、この小説が書かれたのは1991年。

まだ、バブル崩壊も、阪神淡路大震災も、オウムの事件も、ニューヨーク同時多発テロも、東日本大震災も、原発事故も起きていない。

おそらく、今の池澤夏樹であれば、このような小説を書くことはないだろう。

二十三年も経つと世の中も変わる。

もし、この小説に続編があるならば、おそらく、遼の生き方も、二組のカップルの生き方も大きく変わっていたに違いない。

2014年9月4日木曜日

十二の遍歴の物語/ガルシア・マルケス

ガルシア・マルケスが、「族長の秋」を書き終えた翌年1976年から1982年の間に書いた短編小説集。

その小説が完成する前、ガルシア・マルケスは、子供が使っていた学校用のノートに六十四のテーマを書き込んでいた。
しかし、そのノートを紛失してしまい、何とか三十の物語を再構成した。

さらに、そこから駄目になったテーマをふるい落とし、十八にしぼり、書き進める中で、六つがゴミ箱ゆきになった。

そうして残った十二編を、ガルシア・マルケスは、

「あとに残ったものはしかし、もっと長く生きられる息吹を得たようだった」と評している。

これらの短編小説は、ガルシア・マルケスがヨーロッパの都市 バルセロナ、ジュネーブ、ローマ、パリを巡った旅行の後に、もう一度書き直された。

そのせいか、ガルシア・マルケスが書く、いつもの南米の空気とは異なったヨーロッパの雰囲気を感じる。スタイリッシュというか、物語に抑制が利いているせいか、普通の小説家が書く小説のように感じるのだ。

ただ、ガルシア・マルケス特有の要素は、どの作品にも濃くあらわれている。

例えば、亡命した政治家を優しく世話してあげる夫婦を描いた「大統領閣下、よいお旅を」

あるいは、眠る女性への興味を描いた「眠れる美女の飛行」

超現実の世界を描いた「聖女」、「八月の亡霊」

ファンタジックな「光は水のよう」

老人の性愛を描いた「悦楽のマリア」

理不尽な運命を描いた「電話をかけに来ただけなの」、「雪の上に落ちたお前の血の跡」

1980年前後に、こんな小説をガルシア・マルケスがコツコツ書いていたのだ。

そう思うと、これらの小説の不思議な色に浸されて、記憶にあった80年代の様相や色合いが何となく変わってしまったような気分になる。

2014年9月1日月曜日

海街diary6 四月になれば彼女は/吉田秋生

海街シリーズも6巻目かと思う。

最近、分厚い本ばかり読んでいたので、買った時の本の薄さに久々にびっくりしたが、一読して、とても面白かったし、作品のレベルは下がっていないと思った。

この物語は、意外と人の死に伴う相続のもめごととか、わりと生々しい話に触れている機会が多いのだが、

海猫食堂のおばさんが癌で亡くなる際、おばさんが、不義理の弟には法定相続分だけにして、食堂を手伝い、病気の自分を世話してくれた人たちに対して、残りの全財産を遺贈しようとしたが、相続のアドバイザーをしていた信用金庫の課長が、「あなたの善意があなたの大切な人を傷つけるかもしれない」と諭し、20万円程度の遺贈に抑えたというエピソードは、なるほど、そういうものなのかと考えさせられた。

さらに、その後のおばさんの言葉も。

「死んだ後のことは正直考えてなかったわ 先に死んでいく者の願うことは すべてかなえられると思うのは やっぱり傲慢よね」

こういうのは、法制度だけ理解しても分からない大人の言葉ですね。

こんな大人の対応をする信用金庫の課長に惹かれ、ついに恋を意識し始めた佳乃の邪悪なオーラがいい。(他が、みんな、いい人ばっかりだから)

すずの進路がどうなるのかということも含め、次巻も楽しみ。