僕は、3、4歳のころから小学校3年生の夏まで、浪江町に住んでいた。
福島県双葉郡浪江町。
僕の家族は、その町の金融機関の社屋のすく傍の小さな社宅に住んでいた。
社宅には、開かずの部屋があり、そこには会社の書類が入った古びたダンボールがたくさん積まれていた。私と姉は、お化けの部屋と呼んでいた。
父は一番、仕事に油が載っていた時期だった。支店長だった彼は誰よりも先に会社に行った。
何でそんなことをしたのか、今でも分からないが、銀行窓口の水を湿したスポンジの器具を並べるのを手伝った記憶がある。
町は、小さかったけれど、私にとっては全てだった。
今、思うと私の子供時代で一番幸せな時期だったかもしれない。
セキセイインコを買った小さなホームセンター(金魚が泳いでいるのを飽かずに見ていた)
夏には、大きな金属製の機械から作り出されるイチゴのカキ氷を食べるのが楽しみだった。
学校への通学路を近道して、病院の病棟と病棟の間の渡り板の通路を抜ける道をよく歩いた。
精神病院という噂もあり、人気のない渡り板を越えるとき、笑い声が聞こえると、子供ながらに怖かった。
町には、唯一の小さな洋食屋が1件だけあり、月に1回、家族で外食に行った。
私は、いつも、スパゲティ・ナポリタンを食べていた。
友達も多かった。
一番仲がよかった友達は、町の建設会社の社長の息子だったが、事情があって、母方の酒屋の家から学校に通っていた。学校が終わると、酒屋のビールケースや日本酒の空瓶が置いてある倉庫に行って、キャップを集め、お互いにぶつけっこをして遊んだ。
ある夏の夜、その友達が母親と一緒に高級花火セットを持って、うちに来て、一緒にやらないかと誘ってきた。その花火は父親が買ってくれたものらしいことが分かり、僕は初めて、その友達の家庭の事情が分かった。
好きな女の子もいた。彼女は町の眼科医の娘だった。
学校では、落ち着きのない子と言われ続けた。何かといえば、優等生の姉に比べられていた。僕の通信簿は、5段階評価で大体が3か2だった。
ある時、社会のテストで20点台をとり、父親にひどく折檻された記憶が残っている。
勉強は出来なかったが、友達といつも、いたずらをして毎日が楽しかった。
現在の浪江町長にも迷惑をかけた覚えがある。まだ、当時は酒屋の軽トラを運転していた町長 の車両の荷台で、私を含め子供たちが何人か乗って、海にでも行こうとしていたのだろうか。
運悪く、パトカーが後ろから来たとき、空気が読めない私は、
町長 が、静かにと言うのもきかず、大声で笑い出し、結局、それに気づいた警察に車を止められ、町長は注意を受けた。
当時、仲のよい友達に、李(リー)君がいた。台湾出身の彼は、体格も良かったが、頭も良かった。エンジニアの父親をいつも尊敬していた。
ある日、町の通りで、スピーカーを持った大人たちが車に乗りながら、しきりに大声を出して演説していた。
僕と一緒に歩いていた李君は、その大人たちを見ると、突然ダッシュして、詰め寄った。
「原発の何が悪い。原子力は安全なエネルギーだ。パパも安全なものだと言っている」というようなことを、突然、李君は、大人たちに言い出したのだ。
僕は、大人たちに真っ向から反論する李君にびっくりしてしまった。
大人たちは当惑気味だったが、多少茶化したように「ここに、馬鹿なことを言っている子供がいます。」とスピーカーで言いながら、あきれたように笑い出した。
李君は、負けずに反論したが、大人たちは李君の父親も非難し始めた。彼らは「原発反対」の主張を曲げなかった。
僕は、友達の父親を貶めようとした大人たちに明らかに腹が立っていた。李君のために、義憤を禁じえなかった。
今考えると複雑な思いがする。しかし、町は交付金で活気付き、原発で働いている親を持つ友達も何人かいたのだ。
それから、父の仕事の都合で転校することになり、浪江町を離れることになった。二、三年の間は何度か町を訪れたが、いつしか足を運ばなくなった。
その後、一度だけ、なぜそんな気分になったのか分からないが、大学生の春休みのころ、一度だけ、浪江町を再訪したことがある。
僕は、当時住んでいた自分の家(もう建物はなかった)のあたりを歩きながら、ドブ川の匂いに懐かしさを覚えた。
きっと、あの事故がなくても、僕は二度とあの町を訪れなかったのかもしれない。しかし、可能性としてあの町に行けなくなってしまったこと、僕の少年期の思い出が詰まった場所が今は誰もいない場所になっていることに、今でも鈍い痛みのようなものを感じている。
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