確かに一昔前、私たちの生活には「待つ」場面が多かった。
遠くの人からの手紙を待ち、受験の合格発表は電報が届くのを待ち、見逃した映画やドラマは、テレビで再放送されるのを待ち、付き合っている異性から電話が来るときは、電話が鳴ったとき、家族の誰よりも早く受話器をとらなければと家の電話機のそばで落ち着かない時間を過ごした。
待つ間、待つ人には様々な思いが過ぎる…期待、希望、倦怠、疑念、失望、祈り…
でも今は、インターネット、メール、レンタルビデオ、携帯端末…私たちは欲しければ、いつでも、何処でも待たずにすぐに、ほしいものにアクセスする。
鷲田清一の『「待つ」ということ』は、そんな「待たなくてよい社会」「待てない社会」に対する穏やかな反論の書であり、前にこのブログで取り上げた「聴くことの力」と「だれのための仕事」の続編にあたる書だ。
19の章で、色々な視点から「待つ」ということが検証されていているのだが、
個人的には認知症患者がしばしばとる行動の原因を「コーピング」(これまでどおりの「じぶん」を保ち続けることができない本人が何とか切り抜けようとするやむにやまれぬ戦略)という概念を使って説明している部分に特に興味を引かれた。
とかく、認知症患者に対しては周りが異常な目で見てしまうことが多いが、それは当人たちも気づいており、何とか自分を正当化するためのやむを得ない手段であることがはじめて理解できた。
また、そういった認知症患者のケアに関する考え方として、ひとつの挿話とともに以下の考え方が紹介されている。
ケアにおいて、重要なのは、相手に問題を直視させることや、問題を解決することではなく、痴呆が問題となる場から、すり抜けることではないか…「痴呆」ケアにおいて重要なのは、…問題の転換ないし消失なのであって、それには、ふとしたはずみで起こってしまう「パッチング・ケア」…そう、ケアと言うことさえはばかられるような些細な行動の「つぎはぎ」によって、現実のケアはなりたっている…作者は、そのようなケアの姿勢を、陶工が瀬戸物を窯に入れて焼き上がるのを待つ行為に似ているという。
何かを創るという意思はかえって邪魔である。…土をこねる。何度も、何度も、飽くことなく土をこね、そして焼く。「一人の作者に期待し得ぬような曲折」 が現れるまで、偶然に身をゆだね、待つ。偶然に身をまかせ、「待つ」ことすら放棄しているような、でも、何かが変わることを願いながら、日々の生活を淡々と反復する。
「待つ」とは、こんなにも深い行為だったのだ。