2020年10月25日日曜日

その果てを知らず/眉村卓

本の帯に「遺作」とあるので、遺作なのだろう。

眉村卓は、2019年11月3日、誤嚥性肺炎のため、八十五歳で亡くなっている。
大阪大学経済学部を卒業後、旧大阪窯業耐火煉瓦株式会社に入社し、サラリーマン生活の傍ら、早川書房主催のSF小説コンテストに応募したり、SFマガジンに寄稿したりして、作家生活をスタートさせた。1970年から80年代の頃は、数多くのSFのジュブナイル小説を書き、ドラマ化や映画化された。

2000年代は、がんを患った妻のために1778話のショートショートを書き続け、話題になった。

2012年には自身も食道がんを患い、以降、入退院を繰り返していたらしい。

この小説は、そうした背景を分かっていると自伝的な内容を強く感じる。

げっそり痩せて、足が「うどん」のように軟らかくなってしまい、起き上がるのも大変になってしまった老SF作家 浦上映生は、眉村卓自身のことなのだろう。

また、同じく名称は変えられているが、日本におけるSF創生時期の早川書房やSFマガジン、日本SF作家クラブや、山の上ホテルの思い出なども書かれており、星新一、筒井康隆、小正左京など、いわゆるSF第一世代の大物作家とのエピソードも出てくる。

一方でこの小説の面白いところは、薬や病気、高齢から生じる幻覚がSFチックな不思議さに転換されて描かれているところであり、ショートショートの要素も感じられるところだ。

癌の転移をもじった言葉なのだろうか、「テイニー」と呼ばれる瞬間移動の能力を身に着けた娘、旧知の編集者との、別の時間流、別の宇宙での別の生命体への転生に関するやり取り。

老いて死も間近な自分という存在を感じながらも、その重さをSF的な世界に遊ばせ、解き放つ。

物語の最後、浦上映生が空を飛び、「地球も、地球が属していた宇宙も、何も知らない」何かに転生したかのような終わり方が印象に残った。

自分が少年時代好きだったSF作家がこういう素敵な終わり方を書いてくれたことが、妙にうれしい。

2020年10月12日月曜日

戦う操縦士/サン=テグジュペリ

1940年5月23日、サン=テグジュペリは、ブロック174型偵察機に乗って、ドイツの占領地であるアラスの上空を偵察飛行する。

当時、ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻し、5月15日には、フランス北東部の国境を突破していた。

サン=テグジュペリは、この偵察飛行を、最初、全く無意味なものだと断じている。
フランス軍の情報伝達系統は麻痺しているため、偵察して持ち帰った情報は司令部に一顧だにされないだろうと。ただ、戦争が始まった以上、司令部は部隊を動かす必要があるから、自分たちに偵察飛行という命令が下ったのだと。

ドイツ軍戦闘機との遭遇、激しい対空砲火、高度一万メートルへの退避と少ない酸素供給で意識が遠のく過酷な状況。
死が近くなる時、人はフラッシュバックのように人生を垣間見るというが、サン=テグジュペリも戦死したり負傷した同僚のこと、基地や宿営地での生活を思い出す。なかでもオルコントの農家で寝床から這い出て暖炉に火をつけるシーンが暖かい。

そして、サン=テグジュペリは、この激しい戦闘と死への接近を通して、なぜ自分が死ななければならないのか、誰のために、何のために死ぬのかという疑問への答えを見つけ出す。

ある意味、この物語ですごいのは、この「アラスの啓示」を受けて、物語後半に繰り広げられている倫理的・哲学的思考の過程だろう。その強固な言葉から感じる意思は、サン=テグジュペリの神への誓いの言葉のように私には思えた。


2020年10月11日日曜日

花子/森鴎外

花子は、明治期、約二十年欧米を巡業した女優又はダンサーの福原花子(本名 太田ひさ)のことで、フランスの彫刻家ロダンは、彼女をモデルに彫刻作品を約六十点ほど残している。

この小説は、その花子とロダンの出会いの場面を描いていて、ロダンの仕事場に彼女を連れてきた通訳の久保田という男は、花子が別品ではなく、もっときれいな女を紹介したかったと思うが、ロダンは彼女の無駄がない筋肉質の体を見て気に入り、裸になってくれるように頼む。

ロダンがスケッチをする間、久保田は席を外し、書籍部屋でボードレールの「おもちゃの形而上学」を読み、時間をつぶす。

その「おもちゃの形而上学」には、子供がおもちゃで遊んでいて、しばらくするとそれを壊して見ようとする習性があり、それは、おもちゃの背後に何物かがあると思い、それを見てみたいという衝動に駆られるからだと書いてあった。

ロダンがスケッチ後、久保田を呼び戻し、何を読んでいたかを尋ね、「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔(ほのお)が面白いのです。」と言うところが、この小説の主題だろう。

最後に、ロダンが花子の筋肉や骨格の特徴を述べ「強さの美」と表現するが、それは体だけの事ではないのだろう。

この作品を読んで、夏目漱石が書いた「夢十夜」の第六夜 運慶が彫る仁王の話を思い出した。

2020年10月10日土曜日

杯/森鴎外

この短編は、人は人、自分は自分という極めてシンプルな主張に収斂されるのだろうが、7人の女の子たちの持っている銀杯に「自然」の二字の銘があることや、その字が「妙な字体で書いてある。何か拠りどころがあって書いたものか。それとも独創の文字か」と述べている点を考えると、やはり、7人の女の子たちは自然主義文学の作家を表象しているものと考えられる。

謎なのは、8人目の女の子で、7人の女の子たちよりは少し年上の青い目をした西洋人との相の子として描かれており、銀杯とは対称的に小さいくすんだ黒い杯を持たせている。しかも、この子が話す冒頭の主旨の言葉はフランス語なのだ。

8人目の女の子は、鷗外自身というよりは、鷗外が、西洋から学んで本来伝えたかった文学の理想形を表していると思った方が理解しやすいかもしれない。

この当時、これほど自然主義文学に勢いがあったのかというのが正直な印象だが、鴎外が、はっきりと自然主義文学の作家たちと距離を置いていたことは伝わってくる。




2020年10月9日金曜日

田楽豆腐/森鴎外

冒頭、鷗外が妻に対して「蛙(かえる)を呑んでる最中だ。」と話す場面が出てくる。
その意味は、毎朝新聞で悪口を言われ、その思いをぐっと呑みこむということらしい。

その悪口の内容というものが面白い。

鷗外は小説を書いても「自己を告白しない」「告白すべき自己を有していない」作家であり、むしろ、翻訳家(=創作の出来ない人という意味で)である。しかも、その翻訳には誤訳・拙訳が多く、最近では「誤訳者」という肩書が付けられているというものだ。

今日、森鴎外のなした翻訳の成果を否定する人はいないだろう。
実際、森鴎外は、八十五編の小説(独・露・仏・米含む)と四十五編の戯曲(伊・西・英含む)を訳し、他にもドイツの哲学者ハルトマンの「美学」や、陸軍の求めに応じ、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツが書いた「戦争論」なども訳している。
(翻訳数などの引用元:https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10877/1/izumikoshakiyo_14_86.pdf

事実、森鴎外の翻訳は「即興詩人」など、原作以上の作品であると言われるほどのものだったが、それは、単なる翻訳に留まらず、翻案(表現を変更して新たな創作を行うこと)まで行ったせいだろう。その理由の一つには、鷗外が当時の世評に反して創作が出来る作家であったことが影響していると思うが、同時に明治時代の日本語の混乱期は、そのような創作能力を発揮しなければ、とても達意の文章が書けなかったことを無意識にも鷗外は自覚していたに違いない。

当時の鷗外に対する誤訳の指摘レベルがどの程度のものであったのかは分からない。本人の書いた以下の短い文章「翻譯に就いて」を見る限り、それは、重箱の隅を突つくような(突つき損ねている)ものだったのかもしれない。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/49251_36953.html

そういった鬱憤を紛らわすためだったのか分からないが、鷗外は自分の家の庭にたくさんの草木を植えて楽しんでいたらしい。そのうち、素性が分からない草木が出て来たので、近くの小石川植物園に行って、草木の名前を確認しようとする。
タイトルの「田楽豆腐」とは、草木の名前を表示する名札のことである。

出かける際、妻にお洒落なパナマ帽を買うことを勧められるが、鷗外は日差しをより避けられる、古いつばの大きい麦わら帽子をかぶり、道中、帽子屋に立ち寄り、そこでも店員から「労働者がかぶるもの」と言われながら、新しいつばの広い麦わら帽子を買って植物園に向かう。実用性を重んじる鷗外の性格が出ている。

結局、植物園では、名札がない草木が多く、鷗外が知りたいと思う草木はなかったのだが、ひっそりとした空気の中、四阿(あずまや)で、勉強している学生や、子守が子供を遊ばせているのをぼんやりと眺め、穏やかな気持ちになっている鷗外が描かれている。

健常な作家が描く普段の生活でのちょっとした満足感。
この短編を読んで、まるでイギリスの作家が書くような精神的な鷹揚さを感じた。

2020年10月6日火曜日

食堂/森鴎外

これも、また、森鴎外しか書けない小説だと思う。

明治天皇暗殺を企んだとして、幸徳秋水をはじめとした数千名の社会主義者や無政府主義者(アナーキスト)が検挙・逮捕され、幸徳秋水を含む二十四名が死刑判決を受けた「大逆事件」を、鷗外が勤めている陸軍の食堂で同僚と話している内容を書いたものだからだ。

明らかに、鷗外はこの弾圧を行った明治政府側にいると言っていいだろう。
鷗外の役職だけでなく、彼はこの「大逆事件」の取締りの総指揮にあたった元老 山縣有朋とも無視できない関係性を持っていたからだ。

鷗外の立場としては、この事件を無視することもやむを得ないという判断もあったと思う。しかし、彼の知性あるいは良心からすれば、到底、この事件を無視することができなかったに違いない。政府の思想弾圧に一種の危機感を表明したかったという抑えられない思いがあったのだと思う。

ただ、鷗外はそれをきわめて慎重に微妙な言い回しで述べている。

ただ僕は言論の自由を大事な事だと思っていますから、発売禁止の余り手広く行われるのを歎かわしく思うだけです。勿論政略上やむことを得ない場合のあることは、僕だって認めています。

こう述べた木村(鷗外)が、物語上、ひたすら、無政府主義者の歴史的知識を述べているのも、木村が本当は「大逆事件」をどう思っているかを語らせない小説上の工夫と言っていいだろう。

それにしてもと思う。
明治政府の時でさえ、渦中のいわばタブーの事件について、表現は抑えているとはいえ、極めて著名な作家が作品の中で意見表明しているのに対し、今の日本でそういう作家はいるのかなと思ってしまった。
(たぶん、そういう作家がいても出版社で止めるとか、掲載を見合わせるとかいう忖度が働くのでしょうね)



2020年10月5日月曜日

不思議な鏡/森鴎外

これも、ユーモアに溢れた小説である。

昼の役人としての仕事(鷗外は陸軍の軍医総監だった)と、夜の小説家としての仕事を掛けもちしていた鷗外に、ある日異変が起きる。

鷗外の魂が肉体から抜けだして(幽体離脱というやつ)、どういう訳か、当時はやっていた自然主義文学(現実を赤裸々に描く作風)の作家たちが集まっている会合に呼び寄せられてしまったのだ。

田山花袋、島崎藤村、島村抱月、徳田秋声、正宗白鳥といった層々たる顔ぶれ。
しかもその会合には、彼らの小説に熱狂していると思われる若い書生や束髪(明治時代以後、流行した婦人の洋髪)の女性、労働者たちも、ひしめいている。

会場には大きな鏡が設置されており、鷗外の魂はその鏡面に吸い込まれているのだが、会場にいる人たちは、鷗外の魂が鏡にあることを認識しているらしく、さかんに鷗外のことを噂している。

この噂の内容が、自然主義文学愛好者の人たちの視点が分かって、面白い。
「情というものがない」「翻訳はうまいと評判だが、文章が長い」「臆病で誤訳を恐れている」「夜寝ないのは変人だ」「奥さんの小説も書いてやる」などなど。

ここで、田山花袋が、鷗外に「一つ近作を朗読してくれ」と無茶ぶりをする。
鷗外は「原稿を持ってきていない」「朗読は下手だ」と言っても、田山は「思ったものが紙に映る」「上手なお喋りなど期待していない」と、なかなか容赦しない。

会場がざわつき始め、やじも飛び出すなか、田山が休憩を宣言すると、魂は突然、役所で紙に印鑑を押そうとする鷗外の体に戻る…という物語だ。

ある種の悪夢のような話だが、自然主義文学愛好者の品の無さの描写などを見る限り、鷗外は、明らかにこのシチュエーションを楽しんでいる。

田山花袋は鷗外より十歳年下で、作風から言っても、森鴎外と、あまり接点がないように思っていたが、日露戦争の時に記者として従軍した際、鷗外と知見を得ていたらしい。
(田山花袋の描写も、巨大な頭とか、柄にもない優しい声とか、明らかにからかっている)

こういう小説を読むと、鷗外の大人の余裕というものを感じる。

2020年10月4日日曜日

流行/森鴎外

鷗外と思しき男が、夢の中と思われる世界の中で、黒人の少年とアイルランド人の外国人を召使いに使っている、貴族的な立派な顔をした男のいる部屋に招かれる。

男が言うには、召使たちが、よそで働く際に高い給金を得られるよう、逆にお金を払ってまで彼のもとで働くのだという。

それだけではない、有名な料亭やフランス料理店、カフェも、流行りに乗るために、彼のもとにお金を払って飲食物を運んで食べてもらうのだという。

三越も、様々な洋服を男のもとに持ってくる。男が一つ一つ服のポケットに手を突っ込むと、百円札が入っている。一番面倒なのは、彼のもとに訪れる芸者や娼婦の扱いだという。

ただ、こんな事をしておいて可笑しいのは、この男は、不味いものは人に食わせてしまったり、手落ちがあった服は袖を通さないというモラルの感覚はあるらしい。鷗外の嫌悪感にも敏感に反応する。

小説の終わり方も、洒落ている。
設定を変えれば、今の小説として、雑誌なんかに載っていても、ちっともおかしくない印象を受けた。

2020年10月3日土曜日

カズイスチカ/森鴎外

カズイスチカとは、Casuistica(ラテン語で臨床記録)のことで、鷗外は東京大学医学部卒業後、陸軍の軍医になる間、実際に開業医の父の仕事を手伝ったことがあるらしく、その時の父の様子や患者を診たエピソードが綴られている。

鷗外の父、森静男は、名前の通り、荒々しい言動や立身出世を望むぎらぎらした感じはなく、病人を診るのに疲れると、煎茶を飲みながら盆栽を見るぐらいが道楽だったらしい。

ただ、鷗外は、医学の知識も十分でない父を馬鹿にする気持ちはなく、堅実な生活を続ける父を一種の尊敬の気持ちをもって、近くから見ている。

取り上げられている臨床記録も一風変わっており、顎が外れた青年、破傷風になった少年、一人暮らしの女の妊娠というもので、それぞれ、「落架風」、「一枚板」、「生理的腫瘍」というユーモアを感じさせる漢字で名づけられている。

一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均しくこれ Casus(症例)である。Casusとして取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房(鷗外)はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa(好奇心)が残っている。

どれも明治期の普通の人々の暮らしが垣間見えるように丁寧に描写されており、医者にはなり切れなかった小説家の鷗外しか書けなかった記録と言ってもいいかもしれない。