物語は三部構成になっていて、まず第一部で、わたし(丸谷本人なのかもしれない)が、壁に映った樹の影を見るのが好きだという述懐からはじまる。なぜ、自分は樹の影が好きなのか、その性癖は何によるものなのか、わたしは検証を重ねるが答えを導き出せない。職業作家として、この性癖を題材にした短編小説を書くことを思い立つが、ナボコフがすでに同じ趣向で短編小説を書いていたため、これも着手できずにいた。しかし、わたしが、ナボコフの短編小説を読み直そうと、心当たりの作品を読んでも見当たらない。ナボコフの翻訳者に聞いても知らないという。加えて、わたしがぼんやりと記憶していたあらすじを検証してみると、ナボコフだったら、取り上げないだろうという致命的な欠陥があることに気づく。そして、わたしは、これから、書こうとする話が誰かの作品に似ているふしがあるかもしれないと断りつつも、樹の影を題材にした短編小説を書くことを宣言する。
第二部は、わたしの書こうとした短編小説の主人公の説明である。
主人公は、 明治の終わりに生まれた七十歳代の古屋逸平という小説家だ。
作風は、自然主義文学とは異にした硯友社の筆法をよみがえらせたと評されている。
そして、彼の文学観、代表作が紹介され、次いで、彼の仕事道具のスクラップ・ブックのページに視点が移る。古屋は、自分が書こうとしている姦通小説の道具として、樹の影を使うことを考えていて、かつて、フランスの雑誌から切り抜いたと記憶している樹の影の写真を探しているのだ。
しかし、その写真は見当たらず、古屋はそういえば、自分は樹の影が好きだったということに気づく。
樹の影にからむいくつかの思い出。そして、自分が過去に書いた小説にもいくつか樹の影を扱った場面があることに気づく。
第三部は、わたしの書こうとした短編小説の本編である。
古屋逸平が、故郷での講演を依頼され、それを引き受けたところから話ははじまる。
そして、彼が文芸評論を書くための草稿メモの内容。
捨子譚、継子譚に端を発した小説論、十九世紀半ばから後半までのヨーロッパ文学の身も蓋もない分類、志賀直哉と折口信夫に対するきわどい批評。
物語は本筋に戻り、古屋のもとに見知らぬ老女から、講演会の折に、自分の家で是非会ってほしいという速達が届く。 あまりに慇懃な内容に違和感を覚え、一度は断るが、その老女の姪からの取りなしの手紙もあり、会うことを約束する。
老女の家を訪れた古屋は、そこで自分によく似た男の子が知らない女性に抱かれている写真を見せられる。そして、老女は、その男の子が古屋であり、抱いているのが実の母だと告げる。そばにいた姪は写真を見て「マサシゲ童子に似てる」とつぶやく。その「マサシゲ童子」は、仏壇に写真が飾られており、写真に写っている男の子と似ている。そして、部屋の明かりが消え、ランプが灯されると、銀屏風に盆栽の樹の影がうつる。
「三つ子の魂百まで、でございますね。」。 老女は古屋の作品に樹の影が何度か取り上げられていることを指摘し、次いで、幼少の古屋が、この樹の影を見て、「キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ」と最初の言葉を発していたことを明かす(それは老年の古屋が無意識に発した独り言と同じだった)。
以上が物語の概要だが、実に凝った作りになっている。
第一部で、これから、なぜ自分が「樹の影」を題材にした小説を書こうと思ったのか、その動機を説明し、第二部では、その小説に登場する主人公のキャラクターを説明している。
いわば、第一部と第二部は、通常公開されることはない小説家の内的な思考のプロセスといっていい。そういう手のうちを見せておいて、さらに、冒頭に捨子譚、継子譚に端を発した小説論を紹介し、その論を見事に実証したかのような印象の残る本編が続くのが第三部である。
そして第一部では軽いタッチで語られていた「樹の影」が好きだという性癖が、第三部では、自分すら覚えていない過去の記憶まで遡ってゆくのだ。
一体、古屋は誰の子だったのか。
「マサシゲ童子」とは誰なのか。
この老女は何者なのか。
なぜ、古屋は幼少の頃に老女の家に預けられていたのか。
そういう謎だらけの自分の知らない過去が実は「樹の影」には隠れていて、老女が発した呪文のような言葉「キノカゲ」により、遂に七十歳代の小説家の自我は解体され、過去に転生していくような最後で物語は終わる。
ただ、ざわめく影の樹々のなかで時間がだしぬけに逆行して、七十何歳の小説家から二歳半の子供に戻り、さらに速度を増して、前世へ、未生以前へ、激しくさかのぼってゆくやうに感じた。実に理知的な作りの小説なのに、もっとも重要な部分で描かれていることは、自分ではコントロールできない、自分さえ知らない過去の記憶と前近代的な世界の圧倒的な力なのだ。
このギャップがこの小説の大きな魅力であり、怖い部分でもある。
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