2016年3月7日月曜日

蘆刈 谷崎潤一郎/日本文学全集15

あらすじは、こうだ。

語り部である私が、増鏡の「おどろのした」に出てくる「水無瀬の宮」に行き、後鳥羽院の歌などに思いを巡らし、その足で、淀川べりで月を見ることを思い立つ。

私が淀川の中州の水際で寒さしのぎに「正宗」の熱燗を飲みながら歌を書いていると、蘆の間に影法師のように男が立ち現れる。

男は、瓢箪に入った冷酒を私に飲ませながら、巨椋(おぐら)の池に月見に行くという。
そして、四十年ほど前には、毎年十五夜になると父に連れられ、 巨椋の池に月を見に行き、とある別荘で行われている月見の宴会の様子を覗き見ていたという話になる。

その別荘の御寮人は、「お遊さま」と呼ばれる女性で、父は息子に「お遊さま」 のことを忘れずにいてくれ、その様子を覚えておいてほしいと涙声で云う。

そこから、父と「お遊さま」とのなれそめが語られることになるのだが、「お遊さま」が子持ちの未亡人であることから、父は「お遊さま」とは結婚できず、「お遊さま」の妹の「おしづ」と結婚することによって、「お遊さま」と姉弟同士の付き合いをしたことが分かる。

異常なのは、「おしづ」も自分の結婚が「お遊さま」と父の関係を保つための仮装のものであることを認めていることで、三人の関係は、肉体的なものはないが、「お遊さま」の乳を「おしづ」が吸い、その母乳を父が飲んでみるといった妖しい雰囲気のものだった。

やがて、「お遊さま」の子供が病死することで、「お遊さま」と父の関係は壊れてしまうことになる。

以上があらすじだが、 「お遊さま」の顔の描写が独特である。
父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少なくないけれども、お遊さまの顔には何かこうぼうっと煙っているようなものがある。顔の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない。じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる。
また、私にこの話を語り聞かせる男の正体も謎めいたものある。
最後に月の光の中に溶け入るように消えてしまったこの男は、果たして実在の人物だったのだろうか。「お遊さま」を慕う父の思慕の念が姿かたちをとったものなのか、あるいは、本当に息子だったのか。だとすれば、本当に「おしづ」が母だったのだろうか。

あるいは、川の中州という、あの世とこの世の境で酒に酔った私が月の光に見た幻なのかもしれない。

増鏡、大和物語、後鳥羽院の和歌などの古典を枕に置いたことで、物語は重層的な深みを増し、意図的に省かれた句読点、連綿とした仮名中心の文体は美しく細やかでありながら、「お遊さま」のように、どこか霞のかかったようなぼうっとした印象を残す。そして、その効果がこの物語にふさわしいのは言うまでもない。

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