マルクスといえば、あの「資本論」を書いた人だから、てっきり経済学者とばかり思っていたが、哲学者だった。
その程度の知識しかないのは、私が無教養だからだとは思うが、今振り返っても大学時代、少なくとも「マルクス」を読もうという空気は周りになかった。
1989年のベルリン崩壊と、それに引き続いて起きた東欧諸国の民主化の流れと1991年のソ連崩壊。
マルクス主義を掲げる社会主義国家が次々と崩壊していったことは、マルクスの考えが間違っていたという事実が証明され、これは終わった思想であるという認識を、私も漠然として持っていたような気がする。
しかし、本書では、 内田さん、石川さんともに、その「政治的主張」の正しさではなく、マルクスのダイナミックな思考プロセスに着目していて、
「何かおもしろい視角がないかなあと研究のヒントを探しに行くというような関係」
「マルクスを読むと自分の頭がよくなったような気になる」
「マルクスを読んでいると、自分の思考の枠組み(檻)を外側からがんがん揺さぶられて、檻の壁に亀裂が走り、鉄格子が緩んでくるような感じがする」
と、その知的な効用について、もっぱら述べられている。
マルクスの魅力について、最も端的に本書で述べられていたのは、著書「ドイツ・イデオロギー」から取り上げられたマルクスの箴言について、 内田さんが語っているとことだ。
「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」
史的唯物論を代表するこの箴言について、内田さんは、 こう述べている。
人間が何ものであるかは、その人が「何であるか」という本質的な条件によってではなく、「なにを生産し、いかに生産するか」によって決定される。
その人が「ほんとうは何ものであるか」 なんて、極端な話どうでもいいよ、と。マルクスはそう言っている訳です。どれほど根がヨコシマでも善行をすれば善人。どれほど根が善良でも悪いことをすれば悪人。
ぼくはこれを読んで、心底「ほっ」としたことを覚えています。
(この考えって、司馬遼太郎の考え方にも通じるものがありますね)
「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。」
かっこいいですね。「AがBであるのではなく、BがAなのだ」という修辞法はマルクスの得意とするところでした。
これと同じ修辞法は他の雄弁家によっても用いられます。
「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、 あなたが祖国のために何をできるか考えてほしいのです」(J・F・ケネディ)というような説明を聞くと、俄然、マルクスへの興味が湧いて来る。
しかし、内田さんも、石川さんも、本当に本がボロボロになるまで、マルクスの著書を読み、その言葉が自分の身体の一部になるまでになったから、こういう解説ができるのでしょうね。
自分の考えに自信が持てなくなった時とか、あれって思うような思想的事件に巻き込まれた時に、立ち戻ることができるホームグランドのような、あるいは解毒剤となるような古典的思想を身につけるといいだろうな、と個人的には強く憧れを感じた。
本書はまだ、マルクスの初期の著書までしか触れていないので、是非、「資本論」までの続編を読んでみたい。
と思ったら、 2巻が出ていた…
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