2015年10月18日日曜日

神と人との間/谷崎潤一郎

この作品は、当初あまり良いイメージがなかった。

原因は、丸谷才一の小文を読んでいたせいで、そこには、関西移住前の谷崎は、ずいぶんとひどい文章を書いていた例として、この作品の冒頭にある一節を取り上げていたのだ。

…夜が更けたのか部屋の中がしんしんと寒い。宵に雨戸を締めたのだけれど、借家建てのぎしぎしした普請なので、隙間洩る風がぞくぞくと身に沁みる。…

(確かに、これら擬音の組み合わせは幼稚な感じがする)

しかし、今回改めて読んでみると、谷崎の自伝的な小説「神童」「鬼の面」「異端者の悲しみ」と比較しても質的に劣らないし、本書をこれら自伝的小説に加えても違和感はないように感じた。

本書を自伝的という 意味は、もちろん、谷崎と、その妻 千代、そして彼の友人であり、詩人/小説家の佐藤春夫との間の三角関係だ。

本書では、谷崎が添田という悪魔主義的な小説を書く作家に、千代は、その夫から妻として愛せられていない元藝者の朝子を、佐藤は若い時分に添田と朝子と三人でつるみ、実は朝子を愛していた気の弱い元医者で「失恋詩人」の穂積に、置き換えられている。

穂積は、添田も朝子を愛しているという告白を聞いてしまい、実は朝子も穂積の方が好きだったにもかかわらず、身を引くばかりか、添田と結婚するよう朝子に熱心に薦めてしまったのだ。

(この藝者時代の三人の関係は、鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」の中砂と小稲、青地の関係に似ている。)

興味深いのは、物語が穂積の目線で進んでゆくところで、添田が幹子という女優に入れあげ、夫を愛する朝子と彼女を慕う穂積に対して、その忠節や憐憫の情を悪辣なまでに踏みにじる姿が存分に描かれているところだ。

一方、それに対して、穂積のいじけっぷり、ネクラな描写にも容赦がない。まだ、添田の方が人間的に魅力的に感じてしまうほどだ。

(佐藤春夫は「田園の憂鬱」を読んだことがあるが、詩人らしく、繊細な文章を書く人である。この小説の穂積の描写にはちょっと傷ついたでしょうね。)

面白いのは、作中、添田が、悪魔主義的な小説として、添田、朝子、穂積、幹子を模した人物を登場させ、夫が邪魔になった妻の首をひねり殺してしまう小説を書き、世間の非難を浴びるという場面を描いているところだ。
あらかじめ、この小説が公表された時のことを予想して書いたのだろうか。

そして、この小説では、穂積が、いつまでたっても朝子と結ばれず、添田に利用され続けることに絶望し、添田が精力増進のために飲んでいた西班牙の蠅に毒を盛り、腎臓炎を発症させて、彼を殺してしまうという結末に向かう。

病床で、穂積や朝子に懺悔する添田は、ひょっとすると、「俺を殺さないでくれ、このとおり詫びるから」、という谷崎の本心が仮託された姿なのかもしれない。

同時期に書いた「肉塊」でも、欧米風の混血の女の子に入れあげ、家庭を顧みず、好き勝手に映画制作に取り組む夫が、自分の仕事上の相棒に妻の美しさを発見され、自分の映画制作を脅かされるという内容だ。

この時期、谷崎自身も、自らが招いた三角関係に精神を脅かされていたことが感じられる。

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