2012年7月31日火曜日

ケン・ラッセルの映画


つくづく、情報に疎い男だと思うが、この間、ケン・ラッセルの映画の文章を書いた後、2011年11月27日に、彼が脳卒中で亡くなっていたことを知った。

ケン・ラッセルの映画にはまったのは、大学生のころで、レンタルビデオで出ていたものは、ほとんど見ていたような気がする。

ケン・ラッセルの映画
http://www002.upp.so-net.ne.jp/garu/ken/ken.html

彼の映画は、B級映画、カルト映画に分類されそうな毒々しい映像が特徴のひとつであることは間違いないが、何より見るものを圧倒する力強さに溢れていた。

活き活きとエネルギッシュに動き回る主人公…狂えるメサイア

人が人になる前にDNAに記憶していた映像が呼び起こされてしまったかのようなタブーを感じてしまう映像…アルタード・ステーツ、白蛇伝説

独特の美意識で貫かれた幻想的な映像…ゴシック、サロメ

こんな力強い映像を撮る映画監督は、もはや望むことはできないだろう。

ありがとう。ケン・ラッセル。

2012年7月30日月曜日

欲望のあいまいな対象/ブニュエル


金持ちの初老の男マチューが、自分の家にメイドとして働きに来た若く美しいコンチータを見初め、何とか、彼女を物にしようと四苦八苦するが、彼女に翻弄されし続けるというストーリー。

さんざん貢ぎ、何とかコンチータを自分の別荘に連れ込み、事に及ぼうとしたら、強力な貞操帯をつけており、必死に糸を解こうと苦戦して何も致せず、呆然とするマチューには、思わず笑ってしまった。
そんな出来事を、パリ行きの列車のコパートメントの六人掛けの席(子供も聞いている)で、あけすけに話しているのが、また可笑しい。

コンチータは、二人一役で、上品な一面を、キャロル・ブーケが、奔放で下品な一面を、アンヘラ・モリーナが演じていて、何も知らないで見ていると、あれっという感じになる。(女性にはそういう二面性があるということの演出なのでしょうね)

ブニュエル最後の作品で、所々、ブニュエル特有の皮肉めいたセリフや、意味深で不可解なシーンが出てくるが、そういう小手先よりも、まず、この作品のもつ喜劇性が印象に残った。

フェリーニが晩年に作った「女の都」と、ちょっと似ているなと思いました。

谷崎も晩年、瘋癲老人日記を書きましたが、私の好きな老大家の晩年の作品は、結局、人間(特に男)という存在は愚かである(愚かであることが楽しい)ことを描いているところが共通しているようです。

2012年7月29日日曜日

MAHLER/Ken Russell


久々に、ケン・ラッセルの映画を見た。
この「マーラー」も、二十年ぶりぐらいに見たような気がする。

オーストリアの有名な作曲家 グスタフ・マーラーの半生を描いたもので、ニューヨークでの仕事を終えて、ウィーン行きの列車の中で、妻 アルマとの仲がよいとはいえないやり取りの中、マーラーの過去が随所でフィードバックされていく。

マーラーをピアニストにして金儲けをすることに情熱を注ぐ家族、ユダヤ人としての差別、ブラスバンドが嫌いになった理由、不遇のうちに精神病を発症した作曲家の友達、カトリックに改宗した訳、同じ作曲家を目指していた弟の自殺、若い魅力的な妻に言い寄る男たちに悩まされる妄想…

ケン・ラッセル独特の毒々しい映像も見ていて懐かしかった。
中でも、マーラーがウィーン歌劇場の監督になるために、ナチスの格好をしたコジマ・ワーグナー(ワーグナーの妻、ワーグナーの死後も音楽界に影響力を持っていた)に取り入ろうとするシーンには、思わず笑ってしまった。

作品中でも軍人から言い寄られる妻 アルマは、魅力的な女性だったようで、マーラーとの結婚前には、画家のクリムトとも恋仲だった。
マーラーとの結婚後も、自分の肖像画を描きに来た画家のオスカー・ココシュカと激しい恋に落ち、マーラーの死後、ココシュカが第一次世界大戦で出征すると、建築家のグロピウスと再婚し、グロピウスも出征してしまうと、今度はユダヤ人の若い詩人と恋をするという忙しさだった。

ケン・ラッセルの映画の中でも、それ程、印象に残る作品という感じはしないが、作品中、マーラーの交響曲がたくさん聞けるところは、お勧めかも。

2012年7月21日土曜日

夏の午前

窓の外は明るくなっていたが、空は曇っていて、それほど気温が上がらないと

身体がまだ眠りを欲している感じ

しばらく、横になってぼんやりしていたら、中原中也の詩が頭に浮かんだ

そうして、また、しばらく眠った

夏の午前よ、いちじくの葉よ、
葉は、乾いてゐる、ねむげな色をして  
風が吹くと揺れてゐる、 
よわい枝をもつてゐる…… 

僕は睡らうか…… 
電線は空を走る  
その電線からのやうに遠く蝉は鳴いてゐる  
葉は乾いてゐる、  
風が吹いてくると揺れてゐる  
葉は葉で揺れ、枝としても揺れてゐる

僕は睡らうか……

2012年7月18日水曜日

二人の稚児/谷崎潤一郎


谷崎の初期の作品の中でも、「二人の稚児」は、愛読している作品だ。

簡単にあらすじをいうと、こんな感じである。

女人禁制の比叡山の宿坊に、年端もいかないうちに預けられた千手丸と瑠璃光丸の二人の稚児。

年上の千手丸は年頃になるにつれ、次第に女人のまぼろしに悩まされるようになり、ついに、瑠璃光丸の反対を押し切って、女人の正体を究めようと山を降り、浮世に出て消息を絶ってしまう。

その半年後、瑠璃光丸のもとに、千手丸が主であると称する使いの男が訪れ、千手丸からの手紙を瑠璃光丸に渡す。
千手丸は山を降りてから人買いに浚われて、長者の家に下男として売られたが、長者の娘に見初められ、その家の婿になり、何不足ない生活をしているという。

千手丸の手紙には、浮世こそが極楽浄土であり、女人こそが菩薩であるということが書かれていた。

瑠璃光丸は一晩寝ずに考えるが、結局は山に残り、修行を続けることにする。

しかし、瑠璃光丸も年頃になると、次第に、千手丸同様、女人のまぼろしに悩まされるようになってしまう。

瑠璃光丸は、上人に勧められ、二十一日間の水垢離の行を行う。

二十一日目の満願の夜、 瑠璃光丸は夢の中で、気高い老人から、前世で瑠璃光丸を慕っていた女人がこの世では一羽の鳥になっており、山の頂で今まさに死のうとしているから、会いに行くがよいと告げられ、水晶の数珠を授けられる。

瑠璃光丸はその女人の現世の姿に会いたさに、山を登っていく…

という物語だ。

一見すると、千手丸と瑠璃光丸は、お互い相容れない異なった運命を選択したようにみえるが、私には、物質的、精神的、現世、来世の違いはあるのかもしれないが、辿る道が違っているだけで、結局は同じものを求めているように思えてならない。

瑠璃光丸が、血を流しながら苦しむ真白な鳥を抱きしめて、水晶の数珠をその首すじにかける美しい場面は、千手丸が浮世で経験し、瑠璃光丸に伝えたかったものと、表裏一体のような気がする。

2012年7月16日月曜日

多言語を使いこなす人とは


ミルチャ・エリアーデは、8つの言語(ルーマニア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、英語、ヘブライ語、ペルシア語、サンスクリット語)を使いこなすことができた。

何故、そんなに多言語を使うことができたかというと、一つには、彼が生まれたルーマニアという国が、ローマ人(ルーマニアとは「ローマ人の国」という意味が由来らしい)、ロシア人、ドイツ人、ユダヤ人などが集まった多民族国家であったことが影響している。
また、この辺りは、ヨーロッパの火薬庫といわれる程、民族同士の争いが多く、小国であるルーマニアは、フランスやドイツを意識せざるを得ないといった事情もあった。

二つ目は、エリアーデが、ジェームズ・フレイザー(社会人類学者。金枝篇で有名)の書物を読むために英語を、タントラ文書(インドの経典)を読むためにサンスクリット語を、ジョヴァンニ・パピーニ(イタリアの作家・評論家)を読むためにイタリア語をと、読みたいものを読むための道具として、言語をマスターしていったという事情だ。

これだけの言語を学んだのだから、本人さえその気になれば、言語学への道も進むこともできたが、エリアーデにとっては、言語、あくまで伝達と表現の手段以外の何者でもなかったようだ。

「迷宮の試煉」(エリアーデのインタビュー本)に、エリアーデのサンスクリット語の学習法が載っていたので、参考にあげてみ
なお、エリアーデのコメントには、話すことと読むことを比較すると、とりわけ、読むことへの関心が深かったと述べているので、その辺を念頭に入れてください。
(一般的な英会話学習とは、そもそも目的が違います

1.文法書一冊、辞書一冊、テキスト一冊を、毎日十二時間(ぶっ続けに)勉強する。
これを数ヶ月間続ける。その間、新聞も推理小説も一切読まない。
全面的にサンスクリット語に集中する。

2.時々、先生にチェックしてもらう(質問に対する回答、文章の翻訳)

3.話し言葉の微妙さ、柔軟性を取り逃す可能性はあるが、初めに土台をしっかりさせること、文法の構造と諸概念、基礎的語彙を獲得すること(が重要)

と述べている。

最初の1.は、普通の人では、まず無理なやり方かもしれないが、言語を学ぶときは、短い期間に集中してやる、というのは、よく聞く話だと思う。
また、文法と単語、語彙をひたすら覚えるのは、短期で読めるための成果を出そうとするときは、意外と一番の近道かもしれない。

2012年7月15日日曜日

ムントゥリャサ通りで/ミルチャ・エリアーデ

エリアーデ(1986年没)は、ルーマニアの世界的な宗教学者であるが、小説もいくつか残している。

「エリアーデの日記」でも、小説的な表現が多く見られるので、どんな小説をかいているのか、確かめたくなり、「ムントゥリャサ通りで」(1967年作)を読んでみた。

これは、相当に奇妙な小説である。

ファルマという小学校の校長だった男が、かつて自分の教え子だったというルーマニアの内務省(警察組織のような性格)のボルサ少佐に会いにいくが、ボルサ少佐は、ファルマをまったく覚えていないどころか、何か目的があって自分を探りに来た怪しい人物だと疑う。

ファルマは、秘密警察に拘留され、そこで取調べを受けるのだが、彼が話す内容、供述書の内容が、相当に奇妙なものとなっている。

人の住んでいない家の地下室の水の溜まりに飛び込んで戻ってこない少年の話、
少年たちが遊びで真上の空に放った弓矢が落ちてこない話、
彫像のような体を持つ身長2メートル40センチの精力絶倫の女と牧童と獣姦の話、
水族館を一瞬にして作り上げてしまう魔術師の話、
年齢が六十歳なのか、童女なのか、見た目がころころと変わる女の話…

しかも、話の細部が不必要なまでに詳細に語られていて、また、Aという話はBという話が前提として必要であり、Bという話はCという話が前提で、Cという話が…と、どんどん重なり、200年以上もの時間と登場人物が錯綜し、結局のところ、Aという話がよく分からないという、終わりのない迷宮に陥ったような感覚に陥る。

一方で、ファルマの話す、その現実とは思えない不思議な話を、何故、ルーマニアの秘密警察が根気よく調べるかという部分では、裏の事情もあることが示されており、推理小説のような側面も有している。

エリアーデは、この他にも幻想的な小説をいくつか残しているが、案の定、ほとんどが絶版に近い状況のよう。いくつか、作品を紹介しておきます。

・令嬢クリスティナ…ドナウ川沿いの地主邸に招かれた画家が、農民一揆の際に殺された令嬢クリスティナの幽霊に襲われ、吸血鬼退治の儀式を行う話

・蛇…主人公が湖のほとりで大蛇を呼び寄せる。その大蛇の姿に性的な意味を読み取る女と主人公が湖の中にある島へ渡り、アダムとイヴの姿になって愛し合う。

・ホニグベルガー博士の秘密…ヨーガに関する研究に熱中していた医師が数年前に消息を絶つ。調べていくうちに、彼が「この世」から彼岸の世界に脱出したものの、秘法の修練が足りなかったため、再び「この世」に戻ってこれなくなったことが分かる。

・セランポレの夜…三人のヨーロッパ人が、ある夜、百年以上前のインドの世界にタイムスリップし、ある殺人事件の目撃者になるという話

・ジプシー娘の宿…売春宿に行った男が、ユダヤ娘、ギリシア娘、ジプシー娘の三人の裸の娘に囲まれ、次々と不思議な経験をする。しかし、その宿を出ると、周りの様子は変わっていて、実は外の世界は十二年の歳月が経っていたことが分かる。そして、神秘的な雰囲気の馭者に導かれ、再び、売春宿に戻り、そこで、自分の青春時代の恋人と再会する。

2012年7月14日土曜日

疲れて足が痛いとき

疲れて、足が冷たくなって痛くなるときがある。
ほっとくと、風邪をひきそうな感じ。

そんなときは、よく、リンゴのブランデー(カルバドス)を小さいグラスで、2杯ほど飲む。
体がぽっと暖かくなり、足の痛みも薄れ、気分もよくなる。

ほのかにリンゴのにおいがするのも好きだ。
汗くさい自分のにおいも気にならなくなる。

話がちょっと変わるが、筒井康隆が「わかもとの知恵」という本を書いたことがある。

子供に役立つノウハウ本のようなもので、あくびを止める秘訣や、赤ちゃんを泣き止ませる知恵、
犬にほえられたときの知恵とか、色々な知恵が載っている。

他愛もないものもあるが、なるほどと感心させられるものもあり、玉石混淆という感じ。

つかれたときは、「強力わかもと」を飲むということが書いてあった。

今も売ってるんですね。
http://www.wakamoto-pharm.co.jp/health_si/labo/04.html

知恵を出すと つかれる そのつかれをとる知恵

私の場合は、お酒なのかな。

後は、深酒しないように、気をつければよいのだが、これが、なかなか…

2012年7月11日水曜日

国会事故調 報告書 その2

先ほど、テレビ朝日の報道ステーションで、国会事故調 報告書の検証に関する特集が放映されていたが、東電本社と、吉田所長の、やりとりが生々しく再現されていて、興味深かった。
「指示命令系統がムチャクチャなんですよ。結局、(官邸にいる東電 武黒副社長から)電話がかかってきて
『おまえ、海水注入は』 
『やってますよ』と言うと、『えっ』『もう始まってますから』
『おいおい、やってんのか』と。『止めろ」と言うので
『何でですか』と。
『おまえ、うるせえ。官邸が、もうグジグジ言ってんだよ』なんて言うから 
(私が)『何言ってんですか』と言って、あれ、切れちゃったよ、そこで」 
  報告書325ページ http://www.naiic.jp/blog/2012/07/05/reportdl/ 
上記のやりとりは、菅総理が1号機の海水注入で「再臨界する可能性があるのではないか」という発言を契機に、東電経営者が政治家に対し不必要な配慮を行い、現場の吉田所長に、1号機の海水注入を停止する指示が出された場面である。
(実際には、吉田所長の判断で海水注入が続行された)


 このようなシーンは、東電と当時の民主党政権だから起きたという話ではなく、実際の企業でも、平常時に起きていることで、現場責任者が苦悩して決定した結論を、何も知らない経営トップが、思いつきで結論をひっくり返してしまうということが、ままある。
時期が、緊急事態の場合は最悪のパターンといえよう。


緊急事態の場合、現場の責任者に、大幅な権限を委譲することについて、危機管理計画の策定時に検討されていれば、ここまで混乱することもなかっただろう。


国会事故調 報告書は、失敗事例が多数掲載されているから、何が問題だったのか、色々と研究するには、うってつけの教科書と言ってもいいかもしれない。

2012年7月8日日曜日

持ち重りする薔薇の花/丸谷才一

元経団連会長で財界総理と称される梶井が、友人のジャーナリストである野原に、自分がパトロン的な立場で三十年来、付き合ってきたクヮルテット(弦楽四重奏団)の4人のメンバーのゴシップ的な秘話を語るという物語。

よく、漫才師でも、舞台以外では、相方とほとんど口を聞かない関係が実状と聞くが、 クヮルテットも、一流のものになると、大概メンバーの仲が悪いという。むしろ仲が悪くないと一流とはいえないというものらしい。

この物語の クヮルテット「ブルー・フジ・クヮルテット」のメンバーにも、さまざまな事件が起こる。

ヴィオラ奏者の別れた奥さんと寝てしまうチェロ奏者。そのチェロ奏者の妻と駆け落ちしてしまうヴィオラ奏者。失言が元でメンバーから追放される第一ヴァイオリン奏者。M&Aのコンサルティングをてがける妻から、突然離婚を突きつけられる第一ヴァイオリン奏者。

しかし、そんなどうしようもない俗な事件で険悪な仲になるにつれ、不思議に、彼らの音楽は成長し深みを増していく。

語り手の梶井も、一人息子を登山事故でなくし、それがきっかけで、妻がキッチン・ドランカーとなり、病気で死んでしまい、その後、経団連に勤めていた俊英な女性と知り合い、再婚するが、その後妻が六十前に認知症になってしまうという私生活の一方、ビジネスでは、どんどん出世し、社長、経団連会長、名誉顧問になっていく。

そんな話が、元経団連会長から、たんたんと語られるのだが、ゴシップネタを暴露した際の法的な問題、M&Aのコンサルタントフィーの話、アメリカの離婚事情、経団連会長候補者のゴシップネタを週刊誌が掲載するのをコネで握りつぶす当たりの話は、おそらく、丸谷氏が聞いた実際の話をベースに書いているのではないだろうか。
一方、セックスの描写などは、直接的なものはないものの、丸谷氏好みというか、老齢の男が好みそうな婉曲的な表現になっている。

ビジネスと芸術と男女のゴシップが複雑にミックスされた物語で、読後の印象としては、フルボディの渋みの利いた赤ワインを飲んだという感じです。

2012年7月7日土曜日

国会事故調 報告書

7月5日、国会 東京電力福島原子力発電所事故調査委員会の報告書が衆議院・参議院議長に提出された。

インターネットでも、その内容は公開されているが、報告書全文は641ページのボリュームがあるため、ダイジェスト版10ページを見たほうが、この報告書の要点と全体像がよく分かるかもしれない。

http://www.naiic.jp/blog/2012/07/05/reportdl/

以下、結論の要旨から、重要なポイントをいくつか抜粋してみる。

【認識の共有化】
当委員会は、「事故は継続しており、被災後の福島第一原子力発電所の建物と設備の脆弱性及び被害を受けた住民への対応は急務である」と認識する 。
また「この事故報告が提出されることで、事故が過去のものとされてしまうこと」に強い危惧を覚える。
「事故は継続しており」の認識については全く同感。

【事故の根源的原因】
事業者である東電も、規制当局である保安院も、
・耐震安全性基準の見直され、新指針に適合するためには耐震補強工事が必要であることを認識していたにもかかわらず、福島第一原発1~3号機については、全く工事を実施していなかったこと 
・津波が来た際に非常用交流電源喪失が起こり、炉心損傷に至る危険があることの認識が共有されていたにもかかわらず、東電が対応を先延ばししていることを保安院が黙認していたこと 
・IAEA〈国際原子力機関〉では、深層防護(原子力施設の安全対策を多段的に設ける考え方)について、 5 層まで考慮されているにもかかわらず、日本は 3 層までしか対応できていないことを認識しながら、黙認してきたこと。9.11における米国の深層防護に関する知見を活かそうとすることについても消極的だったこと 
 が述べられており、
今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られないまま 3.11 を迎えたことで発生したものであった。
と結論付けている。
また、上記のような原因を生んだ構造的な問題として、規制当局と東電との関係について 、
東電は、市場原理が働かない中で、情報の優位性を武器に電気事業連合会を通じて、規制当局に規制の先送りあるいは基準の軟化等に向け強く圧力をかけてきた。(その結果、)規制する立場と、される立場が『逆転関係』となっていたことで、原子力安全についての監視・監督機能の崩壊が起きた点に求められる
と認識し 、今回の事故は明らかに「人災」であったと言い切っている。

なお、今回の報告書では、事故の主因が津波に狭く限定されるものではなく、地震による損傷の 可能性も否定できないという、今までの報告書(東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会や、福島原発事故独立検証委員会)では触れられていなかった問題点も指摘している。

【緊急時対応の問題】
総理、官邸による発電所の現場への直接的な介入が、現場対応の重要な時間を無駄にするというだけでなく、指揮命令系統の混乱を拡大する結果となったことを厳しく非難している。
重要なのは時の総理の個人の能力、判断に依存するのではなく、国民の安全を守ることのできる危機管理の仕組みを構築することである。
という部分も強く同感。
【被害拡大の要因】
政府から自治体に対する連絡が遅れたばかりではなく、その深刻さも伝えられず、住民に対しても事故の進展あるいは避難に役立つ情報も伝えられなかった点について、規制当局の原子力防災対策への怠慢と、当時の官邸、規制当局の危機管理意識の低さが、今回の住民避難の混乱の根底にあり、危機管理体制は機能しなかったと結論付けている。
【住民の被害状況】
この事故の収束作業に従事した中で、100 ミリシーベルトを超える線量を被ばくした作業員は 167 人で、福島県内の 1800km2もの広大な土地が、年間5ミリシーベルト 以上の積算線量をもたらす土地となってしまったこと、被害を受けた広範囲かつ多くの住民は不必要な被ばくを経験し、また避難のための移動が原因と思われる死亡者も発生したこと、住民は事故から 1 年以上たっても先が見えない状態に置かれている状況にかかわらず、政府、規制当局における住民の健康と安全を守る意思の欠如と健康を守る対策の遅れ、被害 を受けた住民の生活基盤回復の対応の遅れ、さらには受け手の視点を考えない情報公表のを指摘している。
以上のような結論を述べたうえで、この委員会は、以下の7つの提言を述べている。

提言1  規制当局に対する国会の監視

国民の健康と安全を守るために、規制当局を監視する目的で、国会に原子力に係る問題に関する常設の委員会等を設置する。

提言2  政府の危機管理体制の見直し

緊急時の政府、自治体、及び事業者の役割と責任を明らかにすることを含め、政府の危機管理体制に関係 する制度についての抜本的な見直しを 行う。

提言3  被災住民に対する政府の対応(重要な部分なので全文抜粋)

1)長期にわたる健康被害、及び健康不安へ対応するため、国の負担による外部・内部被ばくの継続的検査と健康診断、及び医療提供の制度を設ける。情報については提供側の都合ではなく、住民の健康と安全を第一に、住民個々人が自ら判断できる材料となる情報開示を進める。

2)森林あるいは河川を含めて広範囲に存在する放射性物質は、場所によっては増加することもあり得るので、住民の生活基盤を長期的に維持する視点から、放射性物質の再拡散や沈殿、堆積等の継続的なモニタリング、及び汚染拡大防止対策を実施する。

3)政府は、除染場所の選別基準と作業スケジュールを示し、住民が帰宅あるいは移転、補償を自分で判断し選択できるように、必要な政策を実施する。

提言4  電気事業者の監視

電気事業者のガバナンスの健全性、安全基準、安全対策の遵守状態等を監視するために、立ち入り調査権を伴う監査体制を国会主導で構築する。

提言5  新しい規制組織の要件

国民の健康と安全を最優先とし、常に安全の向上に向けて自ら変革を続 けていく組織になるよう抜本的な転換を図る。新たな規制組織は以下の要件を満たすものとする 。

 1)高い独立性
 2)透明性
 3)専門能力と職務への責任感
 4)一元化
 5)自律性

提言6  原子力法規制の見直し

原子力法規制については、内外の事故の教訓、世界の安全基準の動向及び最新の技術的知見等が反映されたものにする点などを含め、抜本的に見直す必要がある。

提言7  独立調査委員会の活用

国会に、原子力事業者及び行政機関から独立した、民間中心の専門家からなる第三者機関を設置し、これ までの発想に拘泥せず、調査、検討を行う。

∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵ ∵

読んだ感想としては、非常によくまとまっていると思った。原発再稼動を前提としている部分を除けば、納得が得られる内容ばかりだ。

大飯原発はすでに再稼動してしまったが、本来は、この報告書の内容を国会で検討・審議し、原発の再稼動の妥当性も含め、国や政府として見直すべき事項、対応事項と実施時期を決定するのが正常なプロセスだったと考える。

少なくとも、原発を再稼動させるのであれば、従来の問題だらけの組織・体制ではなく、新しい規制組織と危機管理体制のもと、実施するという判断が、どう考えてもまともな発想である。

経済より命という優先順位からいえば、消費税増税法案より、よほど重要性が高いと思うが。

2012年7月5日木曜日

いやらしさって…


谷崎潤一郎の小説には、性的な事柄を取り扱ったものが多い。

なかには、かなりきわどいものがあって、「青塚氏の話」などは、その代表例だろう。
女優を妻に持つ映画監督の夫が、彼が製作した妻が出ている映画を殆どみているという老人に話しかけられる。
その 老人は、映画の映像から妻の体の形を隈なく情報収集し(映画のフィルムのコマまで切り取って盗む)、その情報に基づき、頭で再現するだけでなく、ダッチワイフまで作って変態行為にふけっていたという、ちょっと怖い話だ。

しかし、「青塚氏の話」はちょっと度を越えた部分があるが、個人的な感覚では、谷崎の小説では、殆どが美的鑑賞の域まで高められていたり、いやらしさを突き抜けて、人間の愚かしさ、馬鹿馬鹿しさまで辿りついている作品が多く、本当に、いやらしいと思ったことはない。

それに比べると、村上春樹の小説なんかは、かなり、いやらしいと感じる作品がある。
私の場合、年代別の作品として割と明確に線が引かれており、「ノルウェイの森」、「ダンス・ダンス・ダンス」までが、ぎりぎりのところだろうか。

それ以降の中長編の作品「国境の南、太陽の西」(恋人の従姉と寝る話)や「ねじ巻き鳥クロニクル」(奥さんの浮気告白の話)は、かなり、いやらしいと思う。
(いやらしいというか、若干不愉快?)

自分としては、そういうものを求めて本を読んでるわけではないのに、突然、そういう感情にさせられてしまうところが、正直いやだ。
と、いうことで、残念ながら、話題作の「1Q84」もまだ読んでいない。

もう一人の好きな作家である池澤夏樹さんの小説でも、そういうシーンはあるにはあるが、ずっと抑制が効いていると思うのは私だけだろうか(例えば、「光の指で触れよ」でのマッサージのシーン等)。

この違いは、何なのだろう。やはり、個人的な感覚なのだろうか。

(村上さんのファンの方は、一人の戯言として無視してください)

2012年7月4日水曜日

世界の中の日本/司馬遼太郎 ドナルド・キーン

本書は、1990年6月に行われた司馬遼太郎(当時67歳)とドナルド・キーン(当時68歳)の対談である。

日本の歴史・文明に関する知識が蒸留の域に達している二人だから、話す内容はすべて平易なことばで語られており、理解するのに苦労するところがなかった。

面白いと思った部分を取り上げてみよう。

1.オランダからの刺激
織田信長の時代に、あれだけ重用された鉄砲が、江戸時代になると、幕府の意思で捨てさせられ、刀を使っていたという話(象嵌をいれるなど、鉄砲を美術品として扱っていたらしい)。
ほかの国では、鉄砲を一度手に入れたら絶対に手放さなかった。
2.日本人の近世観
鹿鳴館で日本人が慣れない洋服を着て、慣れないダンスを踊っていたことが、長く西洋人に「猿まね」の国だと確信させるような原因を作っていたこと。
3.明治の憂鬱
文部省の留学生としてロンドンにあった夏目漱石が、自分の見た目などに劣等感をもち、ケンブリッジなどの大学に入学せず、アイルランドの老教師の屋根裏部屋に通い、英語を学んでいたこと。
しかし、そんな夏目漱石が明治以降の日本語の文章の骨格を作るような大きな仕事をしたこと。
(対照的に、森鴎外には西洋は西洋、日本は日本という公平な見方ができていた)
4.大衆の時代
浮世絵には、人生の悲劇的な面や深刻な面は全く表現されておらず、美しさだけが表現されていた。例えば、西洋の伝統として、人の顔はその人の魂と変わらないものと思われていたので、顔を丁寧に描かなければならなかったが、鈴木春信の浮世絵などは、すべて同じ顔で描かれていること。
5.日本語と文章
・英語の中に入っているフランス語は約七割で、かつてフランス語であった言葉をたくさん使って英語の詩を書くと、日本で漢語を多用した詩のようになるということ 
・明治三十年ごろまでは、「お父さん」「お母さん」という言葉がなかったこと 
・芭蕉の「奥の細道」といえば、「国破れて山河在り」を引用した文章が印象的だが、実は、「自然こそむなしいが、手で書いた文章は永遠のものである」という考えを述べていたこと 
・日本語は断定を嫌い、語尾をあいまいにする。例えば、「であろう」とか「と思われる」とか「ないこともない」など。
西洋人が聞きたがるのは「である」か「でない」のどちらか。
6.日本人と「絶対」の観念
日本人とは無宗教と言われるが、根っこには基本的に神道的なものがあって、清浄こそこの世の最高価値として尊んでいること(他のアジアの国あるいは西洋と比較しても清潔な生活をしていること)
7.世界の会員へ
キーンが日本のホテルに泊まると、新聞の差し入れサービスがないこと(外国人だから日本語は読めないという偏見)
日本語で講演を行った後、英語で話しかけてくる人物もいること(中曽根元首相)
二人の視点は、老齢にかかわらず、新鮮なもので、内容は、すこしも退屈なところがなく、今読んでも、気づかされる部分が多い本である。
(対談中、司馬がエアロビに行こうとしていた話しが吐露されており、驚いた∵)

2012年7月1日日曜日

海街diary 蝉時雨のやむ頃・真昼の月/吉田秋生


吉田秋生は、有名な漫画家で、代表作には「BANANA FISH」、「櫻の園」等がある。

とてもリラックスしたい気持ちにしてくれる適当な本を探していたら、「蝉時雨のやむ頃」「真昼の月」を見つけた。

父親にも、母親にも捨てられた三人姉妹が、父親の訃報をきっかけに、腹違いの妹と出会い、一緒に鎌倉の街で暮らすという何気ない物語なのだが、とても面白かった。

看護師をしているしっかりものの姉 幸(さち)、地元の信用金庫に勤めている酒豪の次女 佳乃、スポーツ用品店に勤めているアフロ頭の三女 千佳は、性格は、全然違うのだが、サッカーが得意な中学生 腹違いの妹すずは、幸に似ている。

物語は、まんべんなく三姉妹の生活を描いていくが、主役的な立場にあるのは、幸とすずで、この見た目も性格も似ている二人を同時並行的に描くことで、幸の若いころがすず、すずの未来が幸、のような印象を受け、物語の深みが増していくのを感じる。

吉田秋生は、「河よりも長くゆるやかに」や「櫻の園」とかでも、高校生の生活をリアルに描いていたが、海街diaryでは、日常生活をメインに描いている部分、ページをめくっていると、そうそうと思う部分や、思わず、吹き出しまう部分があって、さらに細かな描写が増しているなと感じた。

でも、それをうるさく感じさせないところが、肝だと思う。

たとえば、それは、好きな女の子の髪の毛についた桜の花びらが風に流れるのを、こっそり捕まえたりする男の子や、思いもよらないことが日常生活に顔を出した際に、ふだん、空の上にあるのに、まるで気づかない真昼の月のようだと感じる主人公たちの感性にかかっている。

私たちの日常もそういう部分が大事ですね。

ただ、ぼんやりと無感動に生きているなんて、もったいない。
繊細な感性が大事ですね。

でも、また、鎌倉に行きたくなってしまったー。