2018年12月16日日曜日

闘字/円城塔

子供のころ、文字が生き物のように動き出す夢を見た。
その夢のような奇怪さのようなものを、この小説から感じた。

そもそも文字を闘わせる遊戯とは一体何なのだろう。

かつては一方が文字を書き、他方が部首を当てるだけだったものが、文字の間に強弱を設定する決めごとになり、そのうち字体によって勝負を定める流行が訪れる。

蟋蟀(こおろぎ)が戦う闘蟋の際には、蟋蟀の背中に文字を書き、あるいは螽斯(きりぎりす)、蟷螂(かまきり)、百足(むかで)の背中に文字が配され、しまいには人の体に文字を刺青し闘わせる。

闘字は、本来は出来事を不動にするための文字を弄ぶため、品のない行いとされており、文化大革命以降、下火にはなっているが、いまだに小規模ながら好事家たちのコミュニティが各地に存在しており、主人公もそのコミュニティに呼ばれる。

そこで主人公は闘字を行うのだが、彼の筆から跳ねた墨汁は魚になり、魚面人身蛇尾に変身し、最後に人首蛇身の女媧(女神)になる。

そして、匈の文字に勝る文字を記し、その理由を述べるのだが、文字に支配されたかのような主人公の説明は謎めいている。

文字が生き物のように躍動するマジックリアリズムの世界。



2018年12月15日土曜日

海街diary 9 行ってくる/吉田秋生

読後感が強く残ったのは、番外編の「通り雨のあとに」のせいだろうか。

すずがかつて住んでいた山形の河鹿沢温泉に戻ってくる。
そのときには、すずはサッカーも辞めていて、甥の二人を連れている。
十三回忌という目的だけでなく墓じまいをして、実父母のお墓を鎌倉に移すという。
そして、もうすぐ結婚するという。(甥の一人の名前を見ると、相手が分かる)

その二つの話に少なからずショックを覚えたのは、かつて、すずと一緒に住んでいた腹違いの和樹だ。
彼は真面目に旅館あずまやに勤めているが、弟の智樹は傷害と窃盗を繰り返している。母親の行方は分からない。

和樹は、姉のすずが好きだったに違いない。
しかし、彼女は、父の死後、いい加減な義母とともに和樹ら弟たちを捨て去り、新しい生活を求めて、鎌倉に旅立った。

彼女が蝉時雨の中で香田家姉妹に囲まれながら感情を吐き出すように泣いた場面は、この物語でもっとも印象的な場面だ。

彼女は自分の心の枷を取り払ってくれた姉たちを信頼し、鎌倉に旅立つ。
香田家姉妹にならなければ、海街の物語は成立しなかった。

でも、この番外編では、和樹という残された者から見た蝉時雨の中を走るすずの後ろ姿が描かれている。

呼び止めようとした和樹の声を聴き、一瞬立ち止まったけれど、再び走り出す後ろ姿のすずが。

この物語の光と影のような対比を置いたことで、よけいに光は眩しく、そして残酷に思える。

2018年12月10日月曜日

緑字/円城塔

「文字渦」からの一篇。

この作品も変わっている。
文字の話であることは同じなのだが、主人公の森林は、どうやら相当のファイルサイズを持ったテキストファイルを探索しているのだ。

「平文の記録ではなくデータベース化を検討するべき規模といえたが、まだ力押しできる程度とも言えた」とは言い得て妙である。

そのテキストファイルは、機械向けの命令文が大半だが、島々のように浮かぶヒト向けの文章が偏在している。

漢訳の金光明最勝王経
同じく漢訳の華厳経
千載和歌集の第七十二歌から第九十六歌
光る部首や微弱な光を放つ固有名詞

印刷する際の紙の素材や色、質までデータで指定されている。

さらに門構えの中に門と記された漢字(おそらく架空の漢字)は、40AU(Astronomical unitの意と思われる)の距離に12ポイントで印刷することが指定され、40AUとは冥王星のあたりを指すという、まるで宇宙のような世界として描かれている。

この無意味な、しかし妙に生命感が感じられる宇宙と似た世界がテキストファイルという身近にありながら、その実よく分からないものに存在しているという発想が素晴らしい。


2018年12月9日日曜日

文字渦/円城塔

表紙の「文字渦」がばっと目に入り、書店で思わず手に取ってしまう。
中島 敦の「文字禍」を思い浮かべながら、その美しい表紙を眺める。

その時は気づかなかったが、この本の「渦」は、中島敦の「禍」とは違う。
「禍」は、わざわい、原因の意味であるが、「渦」はうずまきの意なのだ。

この小さな違いを、しかし、この決定的な違いを気づいた人は、この本を楽しめると思う。

その感性は、例えば、秦始皇帝の陵墓から出土した等身大の一万体もの陶俑(人型の像)を眺め、ひとつひとつの像の顔が異なることに気づくのに等しいのかもしれない。

なぜなら、この小説の主人公 俑は、秦の皇帝 嬴から徴用され、専属の陶工として、人々の姿を陶器に写す作業に没頭するからだ。

秦の時代は、象形文字の面影を残す金文から字形の整理が進み、簡潔に枠に収まる小篆が公式書体とされた時代でもあった。

それは、皇帝嬴の意思でもあったが、俑には小篆の文字がよくわからない。
ただの線の入り組みであり、線でしかない。馬という字を見ても馬とはわからず、羊という字は全然羊のようではなかった。岩も川も空も冷たさも皆似たような、同じ太さの線からできており、具象抽象を問わず軽重がなく均質だった。...俑にとっての文字とは、一文字一文字が神聖を帯び、奇瑞を記し、凶兆を知り、天を動かすためのものである。
ある日、 俑は皇帝 嬴から、永遠に存在し続ける「真人」の像を作ることを命じられる。しかも、嬴曰く、それは嬴本人のことなのだ。

一時として同じ表情を宿さない嬴を前にして悩む俑に、嬴は秦の文字(小篆)を参考にせよと言葉をかける。
そして、俑は、宮の一室で一人、文字を造りはじめる。小篆と同じ文字の様式を保ちながらも、異形とも思える文字たち。

その文字たちは、後の発見で、一体の俑(陶工の姿を模した)の足元から見つかった一尺の竹簡一枚に二十文字、百五十枚を編んで一巻として三千文字、十巻で三万文字が記されていたことが分かる。この一見、漢字の進化過程において何の役割も果たさなかった大量の文字群の意味を後世の人々は理解できない。

しかし、この物語を読み終えると、俑が「真人」の本質を理解するまでの試行過程であったことが、そして、その結果として、物語の最後、俑が嬴に答える「真人」の意味が、二千二百年後の世界に生きる私たちにはわかる。

漢字フェチとも言える物語の造りだが、スケールは大きい。中島敦も漢語を多く織り込んだ文章を多用し、大きな物語を造ったが、久々にその格の高い独特の世界観を感じた。

まるで、無数の漢字が頭の中に吹き荒れる感じ。
個人的には好きである。


2018年12月3日月曜日

蛍・常夏/源氏物語 中 角田光代 訳/日本文学全集 5

「蛍」は、相変わらず、玉鬘にちょっかいを出す光君の振舞いが描かれている。
特に、光君の弟である兵部卿宮が玉鬘に恋文を送っているのを知り、玉鬘の女房を呼び出し、自分が考えた返事の内容を書かせて反応を楽しむというのは、常軌を逸している。

のぼせた兵部卿宮が玉鬘の部屋を訪れた際、容易にうちとけない玉鬘の部屋に捕りためていた蛍を放つ。蛍の怪しい光に照らされる姫の美しさで、さらに兵部卿宮を惑わそうという光君のたくらみ。

一方、内大臣(頭中将)は、夢占いで、最近、自分の子が誰かの養女になっているということはないかと占い師に問われる。

「常夏」は、その内大臣が、自分が産ませた娘を探すのだが、玉鬘ではなく、近江の君という姫を見つけ出す。

さっそく引き取るのだが、期待に反し、顔は自分に似てブサカワで若い女房と双六を打ち、早口で軽口を叩くという今風の女の子だった。

和歌を作らせても上の句と下の句がつながらないという歌を即座に作ってしまうという特技を持ち、弘徽殿女御に出した歌も失笑を買い、女御本人からではなく、下の女房から返事が来てしまう。そういった事情も知らず、女御からの返事と思い込み、素直に喜ぶところも見ようによっては可愛い。



2018年12月2日日曜日

日曜美術館「ムンク 自我の叫び」

NHK Eテレの日曜美術館で、ムンクの絵画を藤原新也が解説していた。

ノルウェーの画家 エドヴァルド・ムンクは、80年の生涯で二万点もの作品を残したという。
軍医で厳格な父は精神障害を患い、母は結核を患う。その両親の間に生まれ、病の遺伝と死の恐怖は身近にあった。実際、母と姉を結核で失い、父と弟は肺炎で亡くなる。

ムンクというと、「叫び」を思い浮かべるが、この作品も一つだけではないらしい。
ムンクは気に入ったモチーフは何度も繰り返し描いたという。
そして、多くの自画像も描き残している。
藤原新也の「自画像とは自分が混乱しているときに、自分を見つめ直すために描くものだ」というコメントが面白い。

以下、絵画ごとに面白かった藤原新也のコメント。

・リトグラフの自画像
藤原新也:モノトーンの絵を立体的にするため、そして中央の自分の顔の白さ(白いペストと言われる結核の死の恐怖の意味)を際立てさせるため、下の骨に薄くグレーをかけている。

・「地獄の自画像」(恋愛の縺れで恋人に左指を拳銃で撃たれた際に描いた絵)

藤原新也:後ろの黒い部分に狼が描かれていて、ムンクを見つめているという指摘(よくみると、そんな気もする)。「この人は地獄に落ちた自分を描きたいのよ。芸術家の性だね」のコメントも面白い。

・「自画像、時計とベッドの間」(最晩年の自画像)

藤原新也:時計というのは常に未来に向かっているが、この時計には針がないということは明日がないということだ。表情のない顔は、刑務所に入れられるときに撮影されるマグショットのようだ。ベッドカバーは死の床で、歩いていくと扉の向こうには闇(死)がある。このような複数の謎解きがムンクの絵には含んでいる。
・「叫び」(47歳ごろに描かれたもの)

最初は「絶望」というタイトルで、帽子をかぶった男の後ろ姿、そのあとは、うつむいた男の顔で描かれている。変わらないのは赤い空。そして、ムンクは自然の叫びを聞いたという。「自然の叫び」を、木の伐採の音ではないかという藤原新也も推理も。

この「叫び」に似た背景の絵で、「フリードリヒ・ニーチェ」という絵があるのも面白い。

藤原新也:ニーチェの「神は死んだ」という思想が、産業革命と自然との懸け橋、絶望の一歩手前という状況にふさわしいからだというコメントも興味深い

複数の人妻との不倫遍歴で描かれた「接吻」「マドンナ」「マラーの死」も興味深い。

・マドンナ

藤原新也:左下の胎児が女性をにらんでいるという指摘には驚いた。(枠に描かれているのが精子だとすると...怖い)
トラウマを埋めるために様々なイメージを重ねたというムンクの人生を振り返りながら、
藤原新也の「僕はこういう人とはつきあいたくない」という最後のコメントに笑ってしまった。

東京都美術館で開催されているらしい。
https://munch2018.jp/