2017年7月31日月曜日

幻魔大戦deepトルテック /平井和正

物語冒頭、以下の言葉が引用されている。
広大無辺な可能性の世界がある
そこへ飛び立つ
別の時間 別の世界

ドン・ファン・マトス
このドン・ファン・マトスという人物、北メキシコのヤキ・インディアンの呪術師ということらしいが、その存在が確認できるのは、彼の弟子と称する人類学者カルロス・カスタネダが書いた著書のなかだけである。

しかし、この「幻魔大戦deepトルテック」という平井和正の最後の作品は、ほとんど、このドン・ファン・マトスが弟子のカスタネダに語ったという呪術師(トルテック)の世界観がベースとなっており、従来の幻魔大戦の過去の記憶を若干残しつつも、その根本的な世界観は、すべて捨て去ったと言い切っていいだろう。

悪魔(幻魔) → 捕食者、外来装置
フロイ  → 無限
超能力者  → 呪術師(トルテック)
超能力  → 精霊(ナワール)、内的沈黙
GENKEN、光のネットワーク→ 女トルテック

と、キーワードを置き換えること自体、無意味なのかもしれないが、重要なのは、なぜ、平井和正が、こんな世界観の転換を図ったかということだ。

おそらく、彼は既存の宗教に幻滅していた。
それは、自身が関わっていた新興宗教が契機だったかもしれないが、オウム真理教、イスラム教をめぐる様々な争いや事件が決定打となったのかもしれない。

そして、もっと深いところで、既存宗教、特にキリスト教、イスラム教という一神教に対して嫌悪した。

実際、 この物語の主人公 雛崎みちるは、こんなことを言っている。
わたしはトルテックのものの考え方がとても好きなの。専制的な宗教の示す教えがほとんど見て取れない。地獄とか極楽とか神の怒りとか神の与える罰とか、強迫観念を人間に与えるものの考え方などだけど。本当に自由な人間とはどんなものか、想像ができるから
既存の宗教は、人間の持つ自由を拘束し、強迫観念を植え付け、狭い世界に閉じ込める役割しか果たさない、と彼は感じたのかもしれない。

彼の同様な嫌悪は、おそらく同様の理由で、中国(中国共産党に支配される中国)に対しても向かう。この世界のハルマゲドン(十五億人の消失)が中国で起きるという想定にも表れている。

平井和正が ドン・ファン・マトスの世界観のどこに「人間の自由」を感じ取ったのかは、カスタネダの著書をちゃんと読んだことのない私にはわからない。しかし、冒頭の文言にも関連するように、この物語では、雛崎みちるに対して、トルテックのマエストロの一人であるセタがこう言い含める。
呪術師たちは人間だ。そして失敗は人間にはつきものなのだ。ひとつのことで失敗しても、別のことで成功する。可能性の世界(現実)は実に広大だ。...人間の自由とは、無限の可能性に挑戦することなのだ。人間の生きる目的はそこにある。喜びもそこにある。
新幻魔・幻魔・真幻魔、ウルフガイ、アダルトウルフガイといった平井和正の主要な作品にも見られたパラレル・ワールドという概念が肯定される世界観。おそらく、 平井和正はドン・ファン・マトスのトルテックの世界にそれを感じたのだろう。

十代の若い雛崎みちるにトルテックの力を与え、並行世界を、異なる時間を、自由に移動させ、アブダクション、ウルフガイという別の作品をも取り込み、総体として、無限の可能性に満ちた世界に“仕上げ”をさせる。

かつて、人類の暴力と悪辣さに苛まれた犬神明と青鹿晶子のこの物語における幸福な結末は、その好例なのかもしれない。

平井和正は、七十歳を迎えた最後の作品で、自らの世界観をこれだけ大きく変えることができたのだ。

そして、およそ終わりを迎えることができないと言われていた幻魔大戦の物語は、二月の雪の日、中学生の雛崎みちるの意識の中でひっそりと終わる。

誰も予想だにしていなかった結末、こんな終わり方があり得るとは。

2017年7月30日日曜日

午後の最後の芝生 村上春樹 近現代作家集 III/日本文学全集28

三十四、五の“僕”が十四、五年前を振り返る。
その頃、僕は大学生で、遠距離恋愛の彼女がいて、一緒に旅行に行くために芝生刈りのアルバイトをしていた。

しかし、夏の初めに突然彼女から別れを告げられ、お金を稼ぐ必要もなくなった僕は最後の芝刈りの仕事にでかける。

一癖ある中年の女の家で芝刈りは無事終わるが、彼女から彼女の娘と思われる女の子の部屋を見てほしいと頼まれる。

この物語は何度も読み返しているが、芝刈りの手順の説明や、真夏にロックを聴きながら、アイスコーヒーを飲みつつ、芝を刈る雰囲気も好きだ。

しかし、一番の魅力は、この“僕”に共感できるからだろう。

“僕”には、なぜ、彼女が突然別れを告げてきたのかも、女の子の部屋についての中年の女の問いかけも、それに対する自分の回答も、理解できない。
僕はとても疲れていて、眠りたかった。眠ってしまえば、いろんなことがはっきりするような気がした。しかしいろんなことがはっきりすることで何かが楽になるとは思えなかった。
はっきりしているのは、唯一、彼の思いを表すことができた「芝生」刈りを何かのけじめのように終わらせなければならないということと、彼が一人ぼっちになるということだけだ。

この喪失感が芝生刈りという労働の疲れと、夏の午後の脱力感と重なっていて、心地よい。

文体も、今の村上春樹からすると、ずいぶんと大味なところもあるが、ほどよく力みが抜けていて、この作品には、ぴったりのような気がする。

最近の「みみずくは黄昏に飛びたつ」の中で、村上春樹自身がこの「芝生」を読み返したくない作品の一つとコメントしているのも面白い。

2017年7月25日火曜日

動物の葬禮 富岡多惠子 近現代作家集 III/日本文学全集28

欲深の指圧師 ヨネと、その娘のサヨ子、そして、サヨ子が付き合っていたキリンと呼ばれる男の死体が、この喜劇の中心にいる。

ヨネは指圧師を名乗っているが、資格のないモグリ営業をしていて、裕福そうな支店長の奥さんや工場主の奥さんのところに出入りし、指圧をするかたわら、両家で余った古物などをもらってくる生活をしている。

一方、娘のサヨ子は水商売らしき仕事をしていて、キリンとあだ名した長身の男と一緒に暮らしていたが、生活が苦しいらしく、ヨネの家に来ては、回収してきた古物をさらっていく。

そんなある日、サヨ子がキリンの死体をヨネの家に運び込み、この家でお通夜と葬式を行うと突然宣言する。

ヨネの小心だけれども欲深な性根や、付き合っていた男の死さえ金に換えようと奮闘するサヨ子のあっけらかんさ。

無意識なうちに彼女たちの行動に表れる損得の感覚。
作者が大阪の女性だからだろうか、男が書きそうな人情とか女らしさという幻想は一切なく、その描写には容赦がない。

唯一の善人と思われる人間が死んだキリンというのもスパイスが効いている。

この作品、今、ドラマ化されてもおかしくないと思うが、キリン役は、絶対、嶋田久作だと思う。

2017年7月24日月曜日

崩れ(抄) 幸田文 近現代作家集 III/日本文学全集28

この作品も、文学全集には、まず登場しない部類の作品だと思う。

老齢の作者が好奇心に駆られて、山の崩壊を見に行き、自然の力に畏怖を覚えるという、言ってしまえば、それだけの作品であるが、人をぐいぐいと引っ張り込む力強さに満ちている。

それは、山の崩壊現場という自然の猛威、人智・人力の及ばない世界に、人の背中に負ぶさってまで、わざわざ足を運び(しかも高所恐怖症)、その現場を目の当たりにしたい、体感したいという幸田文の物好きなまでの好奇心、行動力がベースにあるからだろう。

作者自身も、その性質をこんな風に述べている。
人のからだが何を内蔵し、それがどのような仕組みで運営されているか、今ではそのことは明らかにされている。では心の中にはなにが包蔵され、それがどのように作動していくか、それは究められていないようだ。...心の中は知る知らぬの種が一杯に満ちている、と私は思う。何の種がいつ芽になるか、どう育つかの筋道は知らないが、ものの種が芽に起きあがる時の力は、土を押し破るほど強い。
その「土を押し破る」好奇心に突き上げられ、訪れた鳶山の崩壊現場。

砂防用軌道車で出会った女性たち、防寒着、鳶山崩壊の歴史、背負い紐、歩くスピード、肩越しに見る山道、崩壊の現場、緊張でこわばる体...。

最後、ふもとで待っていた車を見て、安堵した作者が後ろを振り返ると、山崩れの凄惨な雰囲気が圧倒し、残っていたわずかな歩く力も容赦なく奪い去る。

この作品は、優しい豊かな自然ではなく、人間にとっては災いとなる自然の力に対峙したときに感応した作者のストレートな感情が綴られており、その意味で稀有な作品だと思う。

しかし、その作業は、車の中ですぐに寝入ってしまった作者の姿が示すとおり、とてつもない重労働なのかもしれない。

2017年7月23日日曜日

鳥たちの河口 野呂邦暢 近現代作家集 III/日本文学全集28

社内の内紛に巻き込まれ、同僚に裏切られ、会社を辞めざるをえなかった男が、百日間、河口に通い、鳥を見続ける。

ツクシマガモ
カラフトアオシシギ
ハシブトアジサシ
ツメナガセキレイ
イワミセキレイ
カスピアン・ターン...

珍しい鳥をみつけては、鳥類図鑑で調べ、いつどこで見つけたかをノートに記録する。

男には病気の妻がいるが、男の心情は彼女には向かわない。
河口に通って鳥を見続けること以外、関心が持てない。

そんな男にあった変化といえば、河口に筏を浮かべようと苦労する少年と、男が撮った写真を本にしないかと誘いをかけてきた印刷会社の社長、そして、たびたび目にする鳥たちの変死と、傷ついたカスピアン・ターンを家に連れて帰り、保護したことだ。

不安定な環境にいる男の心情によって、鳥の見方も変化する。

男の属していた社会と対立する自然の癒しであったり、隊列を組んで飛ぶガンに対しては社会そのものを感じたり。

しかし、最後に、鳥たちの変死の原因だったと思われるハゲタカに男は襲われ、命の危機を感じたとき、はじめて鳥に対して恐怖を感じる。

この時、 男にとって、世話をして傷を癒したカスピアン・ターンは「不気味な異形の物」に変わってしまった。
まるで、これから社会に復帰しようとする男を待ち受ける未知の不安のようなものに。

静かな文章で綴られているが、その奥には硬質で非情な雰囲気が感じられて、個人的には好きな作品だ。

2017年7月22日土曜日

日没閉門 内田百閒 近現代作家集 III/日本文学全集28

池澤夏樹編集の「近現代作家集」も3冊目だが、この巻も、バラエティに富んでいて、かつ、普通その作品は選ばないだろうという読者の予想を裏切る思いっきりの良い編集になっている(ただし、村上春樹を除く)。

内田百閒の「日没閉門」もその一つで、普通だったら、彼の幻想的な作風が感じられる「冥途」か、「サラサーテの盤」ではないだろうか。

この作品は、完全な随筆(エッセイ)で、人と会うのが面倒な作者が玄関脇の柱に貼った「日没閉門」に関するあれやこれやの話である。

しかし、文章は洒脱な俳味が感じられて、とても上手い。
(今、こんなエッセイを書ける作家はいないだろう)

「徹夜の夜半の硝子戸に擦りついて来る飛んでもない大きな顔の猫や小人の凄い目をした泥坊」のくだり。

すごくイメージが膨らむ。



2017年7月21日金曜日

Ecstasy/一十三十一

一十三十一 「Surfbank Social Club」以来の夏全開のフルアルバム。

この夏、はまりそうな予感。



Billboard Live TOKYO 予約しちゃいました。


2017年7月20日木曜日

少女のセクソロジー 幻魔大戦deepトルテック/平井和正

平井和正の最後の作品と思われる「幻魔大戦deepトルテック」には、その前奏として、「少女のセクソロジー」が収められている。

「幻魔大戦deep」で、東丈が結婚した雛崎みゆきの娘 雛崎みちるが主人公になっている。
ただし、ここで描かれている世界では、母の雛崎みゆきはすでに死んでいて、兄とも離れ離れになり、父方の意地悪な叔母と娘がいる家に引き取られている。もちろん、東丈も彼女の前に現れていない。

作家になることを夢見るみちるは、古い下着も買い替えできない過酷な貧困の生活から、持ち前の才気で抜け出していく。

話としては、それ以上のものはないが、セクソロジー(性科学)という題の通り、雛崎みちる(十三歳)は、級友の女の子とレズ的な性交渉を持つ。

ただし、みちるが積極的に性行為をするというより、級友を自分の絶対的な味方にしたいという思惑が働いているような雰囲気がある。

 「少女のセクソロジーII」では、意地悪な叔母を追い出し、地歩を固めたみちるが、アフリカの呪術を研究し、その能力に目覚め、学校で少女たちに陵辱を繰り返す体育教師と対決する話だ。

この体育教師を操っていたのが、実は校長室に飾ってあったアフリカ土産の呪いのお面だったというところは、眉村卓の「深夜放送のハプニング」をふと思い出してしまった。


この「少女のセクソロジー」で書かれている雛崎みちるのポジティブで明るいキャラクターと呪術師としての能力、そして派手な戦闘シーンではなく、精神世界の戦いで決着がつくというところも、本編の「幻魔大戦deepトルテック」に濃く表れている。

2017年7月3日月曜日

翻訳問答2 創作のヒミツ/鴻巣友季子

片岡義男と翻訳論を語った「翻訳問答」の2冊目。

2冊目を提案したのは、片岡らしいが、鴻巣に対して、今度は自分ではなく他の人とやりなさいと言ったという。(人間が大きい)

本書では、奥泉光、円城塔、角田光代、水村美苗、星野智幸 といった翻訳もできる作家を集めて、翻訳論を語っているが、対象作品が、『吾輩は猫である』、『竹取物語』、『雪女』、『嵐が丘』、『アラビアンナイト』というところが前回と全然違う。

『猫』と『竹取』は日本の古典作品の英語訳からの和訳であり、『アラビアンナイト』もアラビア語から英語さらにはスペイン語訳からの和訳という「重訳」状態を意図的に創出している。

この「重訳」によって明らかになるのは、やはり「翻訳」の限界なのかもしれない。
『猫』は、冒頭の「吾輩は猫である」が、奥泉訳では「あ、猫です」、鴻巣訳(ノーマル版)では「わたし、猫なんですよ。」と、原作の雰囲気が無くなっている。

また、翻訳によって、読み飛ばされていた原文の文章の整合性のほころびが見えてくるという点も興味深い。そして、それを違う言語に置き換えるときには、原文にはない文章を補充することも翻訳では求められるという点も面白い。

 『竹取』でも、英訳された文章の展開が早すぎるため、あえて文章を間延びさせるような表現を円城、鴻巣ともに使用しており、翻訳者のテクニックが付け加えられている。

翻訳作品は、翻訳者が第二の作者なのかもしれない。

しかし、『雪女』、『嵐が丘』では、翻訳文学、海外文学が下火になっているという危機感が語られているが、本当なのだろうか。私の行く本屋では、海外文学の棚は結構充実している気がするのだが。

個人的には、最後の『アラビアンナイト』が面白かった。

正式な原典もない『アラビアンナイト』は、正当な原理を求める一神教とは対立する考え方だという話だ。一神教を取り入れたら、文学は死んでしまうと。

『アラビアンナイト』は、さまざまな国でさまざまな翻訳者が訳されているうちに、新しい物語が次々と生まれ、物語全体は豊かさと厚みを増していき、原典が何なのかを突きとめること自体、無意味になってしまった世界的な文学だ。

この文学の特性を、一神教の原理主義にも取り入れることができたら、どんなに世界は平和になるだろうと思うのは、私だけだろうか。

2017年7月2日日曜日

私は写真機/片岡義男 I am a camera / Yoshio Kataoka


I have come up with the following keywords by looking photos within this book.
America, 50 's, Clear, Simple, Consumer Society, Fetishism, Industrial Products, Paper Book, Candy, Chemical Perfume, Cheapness, Commercialism,
The photos are inorganic and dry as same as Kataoka’s writing style.

This book would not let me achieve nothing and go anywhere.

But, sometimes I want to feel that way extremely.

https://www.flickr.com/photos/142241327@N06/sets/72157665293576783


2017年7月1日土曜日

大鮃/藤原新也

オンラインゲーム中毒の青年 ジェームス・太古・マクレガーは、精神科医のカウンセラーを受け、亡き父の生まれ故郷スコットランドオークニー諸島を旅することになる。

そこで、太古青年は、旅行会社が選定した現地ガイドを務めるマーク・ホールデンという老人と出会う。

三日目までのマーク老人の、のんびりとしたガイドに退屈を覚えた青年であったが、四日目の風の強い嵐の日に奇跡が起きる。

マーク老人の友人で船大工のアラン老人、マーク老人とその父、父の弟ラドガの人生。

太古青年が求める父のイメージを強く感じさせる男たち。

そうして、少しずつ変わってゆく太古青年に、大鮃(おひょう)釣りで最後の奇跡は起きる。

この物語の素晴らしいところは、父の死をきっかけに崩れそうになったマークに父親代わりの優しさをラドガが与え、それを受け取ったマークが父の死により父性を失った太古に同じものを与えようとしたことだ。まるで、恩送りのように。
しかし死の扉の前に立つ老いの季節は絶望の季節ではありません。
落葉もまた花と同じように美しいものです。
別れの時にそんな箴言を残したマーク老人を懐かしく振り返る、今は成長した太古を冒頭に据えたことで物語に循環が生まれたように思える。
だから、読者もこの物語をまた読み直してみたくなるのかもしれない。