「かげろうの日記」は、堀辰雄が、藤原道綱の母が平安時代に書いた日記文学「蜻蛉日記」をもとに、現代の日本語を用いて独自の物語によみがえらせたものだ。
池澤夏樹個人編集の日本文学全集が、古典の復権がテーマだとすると、この「かげろうの日記」も、それに当てはまる作品といっていいだろう。
「かげろうの日記」は、関係を持ったあの方(藤原兼家)が、徐々に自分の家を訪問することが少なくなり、藤原道綱母が感じる寂しさ、虚しさを、そして、世捨て人のような生活を送ろうと思うのだけれど、完全には関係を断ち切れない中途半端な関係の中で生まれる、もどかしさ、いらだちのような感情までを、きめ細かく描いている。
平安時代という背景も面白く、男女の思いを伝える術は文と和歌。男が女の家を訪れない理由も、他の女の家に通う際の口実なのか、「物忌み」(不浄を避けて家に謹慎すること)という理由が使われたりする。
でも、 この藤原道綱母(名前がない。○ちゃんママみたいなものか)は、男性から見ると、なかなか手ごわい印象を受ける。
堀辰雄の他の作品にも登場するが、「不幸だけれども自分の考えをしっかりともった女性」のようだ。
その印象がさらに確信に変わるのが、 「ほととぎす」だ。
この作品は、 「かげろうの日記」の続編とも言うべき作品で、藤原道綱母が、夫の藤原兼家が別の女性に産ませた幼い女の子の撫子(なでしこ)を養女として預かるところから話が始まる。
この撫子は可愛らしい女の子らしく、その話を聞きつけ、若い貴族である頭の君が交際を申し込もうとする。しかし、 藤原道綱母が、撫子はまだ幼いから、時期が早いと、容易に寄せつけない。
話をしたいと言っても断ってしまう。
この物語は、 撫子という存在を介在して、藤原道綱母と頭の君の攻防戦のような状況を呈することになるのだが、ことごとく拒絶され、そのうち、フラストレーションが溜まった頭の君が衝動的に藤原道綱母のいる御簾の中に入ろうとする事件が起きる。
それも、藤原道綱母が手ひどく、たしなめるのだが、このへんから、頭の君は、藤原道綱母のことを思いはじめてしまったのかもしれない。
そうこうしているうちに、頭の君はおかしくなってしまったらしく、撫子への思いもどこへやら、他人の妻を偸んで姿をくらましてしまう。
ひとりの純朴な若者を焦らして破滅に追い込んだようにも思える物語だ。
日記というものは、善男善女ではなく悪女が書いたものだからこそ、面白いものなのかもしれない。
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