しかも、その古典作品を、ただ載せても普通の人は読めないから、すべて翻訳する。
国文学者ではなく(ただし折口信夫を除く)、現代のわりとポピュラーな小説家たちによって(中には外国語学者や哲学者という異色な顔ぶれもあるが)。
この辺の事情を、編集者の池澤夏樹は、こう述べている。
今の日本はまちがいなく変革期である。島国であることは国民国家形成に有利に働いたが、世界ぜんたいで国民国家というシステムは衰退している。その時期に日本人とは何者であるかを問うのは意義のあることだろう。
その手がかりが文学。なぜならばわれわれは哲学よりも科学よりも神学よりも、文学に長けた民であったから。しかしこれはお勉強ではない。
権威ある文学の殿堂に参拝するのではなく、友人として恋人として隣人としての過去の人たちに会いに行く。
書かれた時の同時代の読者と同じ位置で読むために古典は現代の文章に訳す。当代の詩人・作家の手によってわれわれの普段の言葉づかいに移したものを用意する。このような作品構成で編まれる文学全集は、おそらく、初めてのことではないかと思う。
大抵の日本文学全集では、ほとんど全てが明治以降の作品となっている。
それは、私たちが読む現代日本文学の主たる祖先は、明治維新以降にはじまる文学であり、更に、そのルーツは西洋文学であり、明治維新前の古典文学とは隔絶しているという文学史観に基づくものなのかもしれない。いわゆる私小説に代表される日本自然主義文学の意識といってもいい。
しかし、一方で、自分たちのルーツを日本の古典まで遡って探し求め、過去に裏づけられた、より多層的な表現を手に入れようとした小説家たちもいた。代表的な作家でいうと、森鴎外や永井荷風、谷崎潤一郎、石川淳、丸谷才一などで、いわゆる古典主義文学の流れだ。
今回の文学全集を編集する池澤夏樹の意識は、明らかに後者の方だろう。
つまり、現在の私たちのことば、考え方、生活のルーツは、712年の古事記に始まり現代にいたるまでの約1,300年近い歴史の堆積の中にあるのだという意識だ。
この全集が、現代の読者に、古典を苦労なく読ませることにより、当時の作者や読者(日本人)の気持ちや生活を知り、共感を覚え、日本人とは何者か、自分とは何者かを考える機会を与えることを考えると、その意義は意外と重いものなのかもしれない。
そして、もう一つ期待することは、これら古典文学を現代日本語に移し替える作業に携わった比較的若い現代の小説家たちの作品に、どのような影響を与えていくかということだ。
言わば、現代日本文学という若干ぱさぱさした栄養のない畑に、肥沃な腐葉土を混ぜ合わせるような作業なのかもしれない。
編集者の池澤夏樹にその目論見があったことは間違いない。
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