そんな風に自分の足元を確認したくなるときには、鳥瞰的な視点が欲しくなる。
私が山崎正和氏の著書に触れるときは、そういった時が多い。
とかくそういう気分になりがちな正月に読むものとして、山崎正和氏の評論集「大停滞の時代を超えて」は、うってつけの本だと思う。(変換で「抱いていたいの時代」が出て苦笑)
中でも「大停滞時代の変革願望症候群」の文章は、腑に落ちるところが多かった。
歴史にはときどき、奇妙な凪(なぎ)の時代と呼ぶべきものがあるようである。そのなかに生きる人間にとって歴史の流れの方向が見えず、流れが起こる気配さえ感じ難い時代である。人びとは政治的にも社会的にも手詰まり感を覚え、自分の立ち位置の決めにくさに苛立ちがちになる。
二十一世紀に入って十年余。いま世界中が、とりわけ日本はそういう凪の時代にいるのではないだろうか。この文章は2012年末頃に書かれたもので、ちょうど政権交代が起こる前の頃だったことを思うと、ますます、この観察は正鵠を得ているものだと思うし、安倍政権に対する高い支持率などは、その反動があったからだという思いも浮かぶ。
山崎氏は、この停滞感について、二十世紀の世界と日本の状況を振り返り、様々な例証を読者に与えていくのだが、とりわけ印象に残ったのは、アメリカとタリバン・アルカイダ連合の戦いを例にとり、前近代では時間はゆっくりと経過し、人々は忍耐強く執念深いのに対し、効率を重んじる近代社会では、人々は万事に堪(こら)え性がないという当たり前すぎる事実の指摘だった。
つまり、我々が感じている停滞感とは、我々自身の堪え性のなさによって増幅されているのが主な原因であるということ。
また、そういった停滞感が何を生み出すのかについて、民主党の政権交代、「維新の会」の台頭は、停滞感から生じた大衆の変革願望が無形の気分としてこれらに収斂され、事が成ったのだという観察も鋭い。
この説明で、私には、選挙の結果を左右するいわゆる「無党派層」という正体がまざまざと見えたような気がした。
第二次世界大戦期の日本においても、この停滞感がマスコミを含む大衆に鬱積し、彼らが求める変革願望に、政治家や軍部が便乗し、悲惨な戦争に雪崩れこんだという指摘も、今の日本を考えると決して過去の事とは済まされないような気分になってくる。
山崎氏が言うように、わずか数十年の停滞にあせり、変革願望を持つことより、そのときどきになしうる努力を重ねて日常の小さな改善を着実に果たしていくという生き方のほうが賢明なのかもしれません。
そういう視点で、この2014年やっていきたいな、という思いに駆られた一冊でした。
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