2012年2月11日土曜日

苦海浄土/石牟礼道子

自分の故郷の名前を、災害や病気として人々に記憶されることほど、悲しいことはない。

石牟礼道子の「苦海浄土」は、熊本県水俣を故郷として生まれた作者が、1950年代の高度成長期の日本で初めて起きた公害病である水俣病に苦しむ人々の声を語り部としてつむいだ作品だ。

化学品メーカーであるチッソ(旧社名:新日本窒素肥料)の水俣工場において、化学製品を合成する際の重要な原料となるアセトアルデヒドの生産の際に発生したメチル水銀を含んだ排水を、水俣湾に、ほぼ未処理のまま多量に廃棄した。

その結果、魚介類にメチル水銀が蓄積され、それらを日常的に多く食していた猫に異変が生じ、そして人間が発病した。

手指のしびれ感、聴力障害 、言語障害、歩行障害、意識障害、狂騒状態…

苦しむ患者たちを無視して、原因を隠蔽し無責任を装う会社、それを黙認する無責任な行政。今の原発事故をめぐる対応にも重なる思いがした。

水俣病で命を落とした勤勉な漁師だった老人の言葉と、その思いを伝える作者の言葉が心に響く。
水俣病のなんの、そげん見苦しか病気に、なんで俺がかかるか。
彼はいつもそういっていたのだった。彼にとって水俣病などというものはありうべからざることであり、実際それはありうべからざることであり、見苦しいという彼の言葉は、水俣病事件への、この事件を創り出し、隠蔽し、無視し、忘れ去らせようとし、忘れつつある側が負わねばならぬ道義を、そちらの側が棄て去ってかえりみない道義を、そのことによって死につつある無名の人間が、背負って放ったひとことであった。
しかし、この本の素晴らしいところは、それだけにととまらず、水俣という地が、今の日本では考えられないほど、豊穣な自然に囲まれ、幸福に満ちた場所であったことを見事に記録している点にあると思う。

作者を「あねさん」と呼ぶ漁師の老人が語る方言によって、きらきらと再現される水俣の海と、そこで悠々と生きる人々の美しさ。
(この部分の文章は、丸谷才一、池澤夏樹氏など、数々の評者に引用されていますので、一度読んでみる価値はあると思います)


以下、余談です。

*国の基準で水俣病と認められていない被害者を救済する水俣病被害者救済特別措置法の申請について、今年7月末までで受付を終了する方針を、政府が出したらしい。

いまだに、月に数十人単位の申請が続いている現状もあり、かつ、水俣病に対する偏見や差別の実態があることから、申請できない潜在的な患者も多いという。そういった現状や問題を無視して、何故、苦しんでいる人々に期限を突きつけようとするのだろうか?

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