2018年2月4日日曜日

ゲド戦記Ⅲ さいはての島へ/アーシュラ・K・ル=グヴィン

ロークの魔法学校に、エンラッドの王子 アレンが訪ねてくる。
彼は、そこで大賢人となったゲドに、世界に異変が起きていることを伝える。

前作でつながったエレス・アクベの腕輪により平和になったはずの世界の均衡が崩れ、魔法の力が失われ、邪なものが立ち上がろうとしていることを察知したゲドは、その原因を突き止めるため、アレンを連れて旅に出る。

ゲドは、その原因をこんな風に話す。

「自然はいつも自然の法則にのっとってあるものだ。今度のは、だから、どう見ても均衡を正そうというのではなくて、それを狂わそうとする動きのように思われる。そんなことができる生物は、この地上には一種類しかいない。」

「...ただ、生きたいという思いだけではなくて、たとえば、限りない富とか、絶対の安全とか、不死とか、そういうものを求めるようになったら、その時、人間の願望は欲望に変わるのだ。そして、もしも知識がその欲望と手を結んだら、その時こそ、邪なるものが立ち上がる。そうなると、この世の均衡はゆるぎ、破滅へと大きく傾いていくのだよ。」

このゲドの言葉でわかる通り、作品には、人間の欲望をひたすら煽り、発展を遂げてきた現代の産業文明、資本主義社会を批判している印象が濃厚に感じられる。

そして、ゲドとともに旅をしていくうちに、精神的に成長してくアレンに代表される若い力がない限り、世界が変わることはないのだというメッセージも込められているような気がする。

ゲドとアレンが、黄泉の国で、クモと呼ばれる死霊と対決するシーンに、既視感を覚えたのは、私だけだろうか。クモは、漫画版「風の谷のナウシカ」で、ナウシカが心象世界で出会う虚無や神聖皇帝とイメージがぴったりとあてはまる。

私は、宮崎吾郎が監督を務めた映画版の「ゲド戦記」は見ていないが、原作の「ゲド戦記」1巻から3巻を読んだだけでも、宮崎駿に関して言えば、その物語を換骨奪胎し、すでに自分の作品に取り込んでいたのではないかという思いを強くした。





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