しかし、本質的には、写真家なのだと思う。
目に映る世界の一瞬垣間見えるその本質を鋭く切り抜く才能が必要な仕事だ。
その藤原新也を特集に取り上げた SWITCHという雑誌を買ってみた。
表紙は、AKB48の指原莉乃。
どこか、憂いのある真剣な眼差しは、藤原新也が彼女に話した言葉を受けての表情だ。
…それからSEALDsのあなたと同じ年代の子がある日リビングの窓のカーテンを開けたらとつぜんそこに荒れ果てた風景が広がってたという夢を見たという話をした。雑誌を読みながら、思ったことがある。
僕は今はそういう時代だと思っているんですと。そういう時代の空気をあなたも同じように吸っていると思うのね。AKB48の指原ではなく、僕は今を生きているそういう一人の普通の子としてあなたを撮りたいんだと。
…目を瞑ってその風景を想像してちょうだい。そしてその風景に取り囲まれた時、ゆっくり目を開けてと。
それは、私が最近こういった雑誌をほとんど読まなくなったせいもあるが、藤原新也に限らず、写真家が撮った写真を雑誌で見ることはほとんどなくなっていたという事実だ。
紙という質感と重さのある媒体に印刷された写真とインターネットの写真は、印象としてやはり違うように思う。
それに、紙のほうがずっとランダムだ。リンクをたどる必要もなく、ページをめくれば、写真が現れ、文章が現れる。
指原の写真から、AKB48の全体写真→前田・大島の2ショット→渋谷ハロウィンの風景→国会前のデモの風景→香港のデモの風景→SEALDs福田さんの写真→震災直後の陸前高田市の風景→小保方さんの写真→梅佳代さんの写真(小保方さんに似てる!)→三鷹ストーカー刺殺事件現場→KOHH(ラッパー)の写真→海上からの福島原発の写真→沖縄辺野古の写真
藤原新也らしい、写真によるこうした遊撃的な現代批評は、80年代のある時期には、普通の雑誌でも見ることが可能だったのに、今はもう、彼の著書という閉じられた世界でしか見ることが出来ない。
ある意味、この雑誌はリバイバルのように新鮮だったが、表現の場所を失った写真家の問題提起の意味合いも感じた。
ペーパレスの電子書籍の流れは続くだろう。しかし、こういう“今”の表現方法として、実力のある写真家と、ある程度の紙面の枠があれば、雑誌はまだまだ捨てたものではない。
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