竹取物語という誰もがそのあらすじを知っている昔話でも、丁寧に現代語訳された文章を読むと、そこには独自の面白さが生まれるようだ。
最も顕著なのは、やはり、登場人物が身近に感じられるところだ。
翁(お爺さん)の俗物的な言動や、かぐや姫に求婚する男たちの情けない姿は、へんに共感を覚える。
かぐや姫も、若い女性でありながら、イエス、ノーをはっきりという、ある意味、欧米的な現代の女性像につながる自立した強い精神が感じられる。
しかし、読んでみて思うのは、周りの人間たちが、こぞって、かぐや姫に、本人が望みもしない結婚、あるいは天皇の愛人となること(宮仕え)を迫ったという事実だ。
美しくても、自立した精神があっても、当時の社会では、女性は結婚して子供を産んで育てることしか、役割はなかったのかもしれない。
自分のしたいことができる時代ではなかったのだから、彼女が結局は月の世界に戻らざるを得なかったのは、妙に納得する。
この物語では、かぐや姫が地上において何をしたかったのかが明らかになっていない。
そこに、彼女の地に足がついていない現実感のなさがあるのかもしれない。
もし、現代を舞台に、かぐや姫が地上での生活を過ごしたとすれば、彼女は自立できる職につき、「私にはしたいことがあるのです」と言って、月の使者を追いかえすこともできたのたかもしれない。
2016年1月31日日曜日
2016年1月30日土曜日
海街diary7 あの日の青空/吉田秋生
やはり、この物語を読むと、こころが暖かくなる。
四姉妹の何気ない日常を描いているだけなのだが、そんな日々の中にも、ドラマがあって、重要な言葉やきっかけがある。
わたしが、じんと来たのは、やはり、サッカーの特待生の話があって、鎌倉の街を離れることに悩んでいるすずの背中を押す風太の言葉だろうか。
彼女の話をよく聞いて、その裏側にある本当の気持ちを見つけてあげるなんて、ちょっと出来過ぎの彼氏のような気もするが、そういうのを別れた後に、ふっと思いついて、間髪入れずに走って戻ってきて、彼女に話しにくる行動も気持ちがいいですね。
海猫食堂のおじさんも、何気に佳乃の恋をアシストするのもいい。
そして、佳乃が片思いだった上司に、「ぼくの、そばにいてくれませんか」と言われて、
「いたじゃない ずっとそばにいたのよ」
と返す言葉も、とてもいいですね。
四姉妹の何気ない日常を描いているだけなのだが、そんな日々の中にも、ドラマがあって、重要な言葉やきっかけがある。
わたしが、じんと来たのは、やはり、サッカーの特待生の話があって、鎌倉の街を離れることに悩んでいるすずの背中を押す風太の言葉だろうか。
彼女の話をよく聞いて、その裏側にある本当の気持ちを見つけてあげるなんて、ちょっと出来過ぎの彼氏のような気もするが、そういうのを別れた後に、ふっと思いついて、間髪入れずに走って戻ってきて、彼女に話しにくる行動も気持ちがいいですね。
海猫食堂のおじさんも、何気に佳乃の恋をアシストするのもいい。
そして、佳乃が片思いだった上司に、「ぼくの、そばにいてくれませんか」と言われて、
「いたじゃない ずっとそばにいたのよ」
と返す言葉も、とてもいいですね。
2016年1月23日土曜日
藤原新也|新東京漂流 SWITCH 2月号
藤原新也は、旅行記や自伝的小説、現代の諸問題に関する批評などをコメントする文筆業を仕事とする一方、独特の世界観がある絵を描いたり、力強い書を書いたりする。
しかし、本質的には、写真家なのだと思う。
目に映る世界の一瞬垣間見えるその本質を鋭く切り抜く才能が必要な仕事だ。
その藤原新也を特集に取り上げた SWITCHという雑誌を買ってみた。
表紙は、AKB48の指原莉乃。
どこか、憂いのある真剣な眼差しは、藤原新也が彼女に話した言葉を受けての表情だ。
それは、私が最近こういった雑誌をほとんど読まなくなったせいもあるが、藤原新也に限らず、写真家が撮った写真を雑誌で見ることはほとんどなくなっていたという事実だ。
紙という質感と重さのある媒体に印刷された写真とインターネットの写真は、印象としてやはり違うように思う。
それに、紙のほうがずっとランダムだ。リンクをたどる必要もなく、ページをめくれば、写真が現れ、文章が現れる。
指原の写真から、AKB48の全体写真→前田・大島の2ショット→渋谷ハロウィンの風景→国会前のデモの風景→香港のデモの風景→SEALDs福田さんの写真→震災直後の陸前高田市の風景→小保方さんの写真→梅佳代さんの写真(小保方さんに似てる!)→三鷹ストーカー刺殺事件現場→KOHH(ラッパー)の写真→海上からの福島原発の写真→沖縄辺野古の写真
藤原新也らしい、写真によるこうした遊撃的な現代批評は、80年代のある時期には、普通の雑誌でも見ることが可能だったのに、今はもう、彼の著書という閉じられた世界でしか見ることが出来ない。
ある意味、この雑誌はリバイバルのように新鮮だったが、表現の場所を失った写真家の問題提起の意味合いも感じた。
ペーパレスの電子書籍の流れは続くだろう。しかし、こういう“今”の表現方法として、実力のある写真家と、ある程度の紙面の枠があれば、雑誌はまだまだ捨てたものではない。
しかし、本質的には、写真家なのだと思う。
目に映る世界の一瞬垣間見えるその本質を鋭く切り抜く才能が必要な仕事だ。
その藤原新也を特集に取り上げた SWITCHという雑誌を買ってみた。
表紙は、AKB48の指原莉乃。
どこか、憂いのある真剣な眼差しは、藤原新也が彼女に話した言葉を受けての表情だ。
…それからSEALDsのあなたと同じ年代の子がある日リビングの窓のカーテンを開けたらとつぜんそこに荒れ果てた風景が広がってたという夢を見たという話をした。雑誌を読みながら、思ったことがある。
僕は今はそういう時代だと思っているんですと。そういう時代の空気をあなたも同じように吸っていると思うのね。AKB48の指原ではなく、僕は今を生きているそういう一人の普通の子としてあなたを撮りたいんだと。
…目を瞑ってその風景を想像してちょうだい。そしてその風景に取り囲まれた時、ゆっくり目を開けてと。
それは、私が最近こういった雑誌をほとんど読まなくなったせいもあるが、藤原新也に限らず、写真家が撮った写真を雑誌で見ることはほとんどなくなっていたという事実だ。
紙という質感と重さのある媒体に印刷された写真とインターネットの写真は、印象としてやはり違うように思う。
それに、紙のほうがずっとランダムだ。リンクをたどる必要もなく、ページをめくれば、写真が現れ、文章が現れる。
指原の写真から、AKB48の全体写真→前田・大島の2ショット→渋谷ハロウィンの風景→国会前のデモの風景→香港のデモの風景→SEALDs福田さんの写真→震災直後の陸前高田市の風景→小保方さんの写真→梅佳代さんの写真(小保方さんに似てる!)→三鷹ストーカー刺殺事件現場→KOHH(ラッパー)の写真→海上からの福島原発の写真→沖縄辺野古の写真
藤原新也らしい、写真によるこうした遊撃的な現代批評は、80年代のある時期には、普通の雑誌でも見ることが可能だったのに、今はもう、彼の著書という閉じられた世界でしか見ることが出来ない。
ある意味、この雑誌はリバイバルのように新鮮だったが、表現の場所を失った写真家の問題提起の意味合いも感じた。
ペーパレスの電子書籍の流れは続くだろう。しかし、こういう“今”の表現方法として、実力のある写真家と、ある程度の紙面の枠があれば、雑誌はまだまだ捨てたものではない。
2016年1月13日水曜日
デビッド・ボウイの死
もう、六十九歳だったのかという驚きとともに、彼の死を知った。
私の中で、デビッド・ボウイの姿は、「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ少佐の頃の美しい姿のイメージのままで止まっていたような気がする。
考えてみれば、初めて買ったLPレコードが、デビッド・ボウイの「Tonight」だった。
当時は、洋楽ブームで、「Blue Jean」がCMで流れていて買ったのだと記憶しているが、「Loving the Alien」の神秘的な曲調に、不思議な違和感を覚えたような気がする。
この頃、すでに、デビッド・ボウイは、アメリカンポップスのヒットチャートに、よく顔を出すほど、ヒットソングを連発していたが、後に、大学の頃、「Space Oddity」を聞いて、この人は、これが地なんだと妙に納得したことも覚えている。(「宇宙の奇妙な出来事」とでも訳すのだろうか?)
宇宙飛行士のトム少佐が、宇宙に出て、何故か、地上基地との連絡を絶ってしまう。
"Planet Earth is blue and there’s nothing I can do." という言葉を残して。
こんな意外性のある物語を神秘的な曲に載せて、さらっと歌うことができたのは、デビッド・ボウイだけだったと思う。
レオン・カラックスの映画『ボーイ・ミーツ・ガール』や、『汚れた血』でも、彼の曲が印象深いシーンでよく使われていたことも思い出す。
レオン・カラックスの映画『ボーイ・ミーツ・ガール』や、『汚れた血』でも、彼の曲が印象深いシーンでよく使われていたことも思い出す。
ご冥福をお祈りします。
2016年1月11日月曜日
砂浜に座り込んだ船/池澤夏樹
池澤夏樹の短編小説集。
「砂浜に坐り込んだ船」は、座礁した船を見ているうちに、死んだ友人を思い出す主人公が、座礁した船の写真を見ながら、その友人と語り合う話だ。
母親を火災で亡くし、その人生をリセットできず、命を絶ってしまった友人と静かに語り合う。それは、慰霊のようにも思えるが、真実は、生者が死者に救いを求めている。
「スティル・ライフ」と雰囲気が似ている。
「苦麻の村」は、福島県双葉郡大熊町から東京都江東区東雲の住宅に強制避難させられた住民が、図書館で地元の新聞「福島民報」を読むうちに失踪し、人知れず、大熊町に戻ってしまう話。
いわきが、磐城という頑丈な城の意であったこと(蝦夷に対して)、大熊町がその最前線で、「クマ」が敵の強さを誇張しようとつけられたのかもしれないという推測は、初めて聞いた説だったので、新鮮だった。
放射能の恐怖に、住民の生活が将来の選択肢も含め、ひどく限定され、固まってしまったことは事実。でも、それは決して決まったことではなく、その気になれば、本来の自由な生活を取り戻すことが出来るのだという生き方、考え方は、ひどく魅力的だ。
「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」は、五十歳で自殺した男が、死後の世界で、十八歳で事故でなくなった姪と再会する話。自殺することは悪い事なのだろう。しかし、死後にこのような世界(救い)があると思っても、それは罪にはならないだろう。
「大聖堂」は、大震災の日に、島に行ってピザを焼くことが出来なかった少年3人が、あの日、ピザを焼くことが出来れば、震災は起こらなかったのではないかという思いに駆られ、果たせなかったピザ焼きを実行する話だ。理性で考えれば、何の関係もない事柄だけれど、もし、あの時、そうしていれば、現実は違ったものになったのではないかという思いにかられるのは、何となく共感できる。
「夢の中の夢の中の、」は、朝、ビジネスマンの男が深い眠りの誘いに逆らえず、二度寝した30分の間に、次から次へと平安時代の頃の夢をはしごして見続ける話。この物語だけ、死と関係ないのかなと思ったが、眠りもまた死であり、夢もあの世と考えれば、おかしくはない。
「イスファハーンの魔神」は、 死が間近い父が、病床で、ペルシャ時代の美しい水差しを無心する。考えた娘と妻は、イミテーションをガラス工芸職人に作らせる。しかし、その出来が見事すぎたせいで、不思議な出来事が起こる。死というものが、ここまで軽くて明るい雰囲気に終わる物語も珍しい。
「監獄のバラード」 は、女を捨てた男が、北海道の吹雪の中、その女の父親の墓参りをする。男は、降りしきる雪の中、女の父親に、あなたの娘を捨てたという汚れを祓ってくださいとお祈りする。何とも不思議な物語だ。
「マウント・ボラダイルへの飛翔」 は、池澤夏樹と思われる男と、イギリスの旅行作家のブルース・チャトウィン(1940-1989年)が、オーストラリアのピンク・レイクという塩湖で出会い、お互いが経験した旅の話やアボリジニの世界観を語り合い、最後には、二人とも虹の虻になって飛んでいくという不思議な物語だ。まだ、この作品のすべてを理解できていないが、スケールの大きさを感じる作品だ。
今の日本の現状、人の死を扱いながらも、どこか、非現実的で明るい雰囲気を失わない池澤夏樹 の作品は、読んでいて楽しい。
「砂浜に坐り込んだ船」は、座礁した船を見ているうちに、死んだ友人を思い出す主人公が、座礁した船の写真を見ながら、その友人と語り合う話だ。
母親を火災で亡くし、その人生をリセットできず、命を絶ってしまった友人と静かに語り合う。それは、慰霊のようにも思えるが、真実は、生者が死者に救いを求めている。
「スティル・ライフ」と雰囲気が似ている。
「苦麻の村」は、福島県双葉郡大熊町から東京都江東区東雲の住宅に強制避難させられた住民が、図書館で地元の新聞「福島民報」を読むうちに失踪し、人知れず、大熊町に戻ってしまう話。
いわきが、磐城という頑丈な城の意であったこと(蝦夷に対して)、大熊町がその最前線で、「クマ」が敵の強さを誇張しようとつけられたのかもしれないという推測は、初めて聞いた説だったので、新鮮だった。
放射能の恐怖に、住民の生活が将来の選択肢も含め、ひどく限定され、固まってしまったことは事実。でも、それは決して決まったことではなく、その気になれば、本来の自由な生活を取り戻すことが出来るのだという生き方、考え方は、ひどく魅力的だ。
「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」は、五十歳で自殺した男が、死後の世界で、十八歳で事故でなくなった姪と再会する話。自殺することは悪い事なのだろう。しかし、死後にこのような世界(救い)があると思っても、それは罪にはならないだろう。
「大聖堂」は、大震災の日に、島に行ってピザを焼くことが出来なかった少年3人が、あの日、ピザを焼くことが出来れば、震災は起こらなかったのではないかという思いに駆られ、果たせなかったピザ焼きを実行する話だ。理性で考えれば、何の関係もない事柄だけれど、もし、あの時、そうしていれば、現実は違ったものになったのではないかという思いにかられるのは、何となく共感できる。
「夢の中の夢の中の、」は、朝、ビジネスマンの男が深い眠りの誘いに逆らえず、二度寝した30分の間に、次から次へと平安時代の頃の夢をはしごして見続ける話。この物語だけ、死と関係ないのかなと思ったが、眠りもまた死であり、夢もあの世と考えれば、おかしくはない。
「イスファハーンの魔神」は、 死が間近い父が、病床で、ペルシャ時代の美しい水差しを無心する。考えた娘と妻は、イミテーションをガラス工芸職人に作らせる。しかし、その出来が見事すぎたせいで、不思議な出来事が起こる。死というものが、ここまで軽くて明るい雰囲気に終わる物語も珍しい。
「監獄のバラード」 は、女を捨てた男が、北海道の吹雪の中、その女の父親の墓参りをする。男は、降りしきる雪の中、女の父親に、あなたの娘を捨てたという汚れを祓ってくださいとお祈りする。何とも不思議な物語だ。
「マウント・ボラダイルへの飛翔」 は、池澤夏樹と思われる男と、イギリスの旅行作家のブルース・チャトウィン(1940-1989年)が、オーストラリアのピンク・レイクという塩湖で出会い、お互いが経験した旅の話やアボリジニの世界観を語り合い、最後には、二人とも虹の虻になって飛んでいくという不思議な物語だ。まだ、この作品のすべてを理解できていないが、スケールの大きさを感じる作品だ。
今の日本の現状、人の死を扱いながらも、どこか、非現実的で明るい雰囲気を失わない池澤夏樹 の作品は、読んでいて楽しい。
2016年1月10日日曜日
映画 傷物語Ⅰ鉄血篇
新春一発目の映画を、この映画にするかは、正直迷ったが、好奇心に負けて見に行ってしまった。
以下、感想を述べてみる。
○登場人物の絵が丁寧に描かれている。
予告の動画でも分かる通り、テレビのアニメ版よりも、登場人物の絵が丁寧で、きれいに描かれている。
登場人物は、7名しかいない映画なのだが、阿良々木暦、羽川翼、忍野メメ、キスショット、ドラマツルギー、ギロチンカッター、エピソードともに、アニメ版より絵がいいなと私は思った(単なる好みかもしれないが)。
○阿良々木暦が年相応にいかにも高校生らしく子供っぽくて、リアル。
阿良々木暦が、羽川翼の連絡先をもらって、はしゃいでいるのはいかにもいかにも高校生らしいし、瀕死のキスショットの姿をみて激しく動揺したり、吸血鬼ハンター達の攻撃に怯える姿は、いかにも年相応に子供っぽく描かれていて、私はリアルに感じた。
○阿良々木の家、学習塾跡がグレードアップ。
阿良々木暦の家が洒落たペンションみたいになっていたり、学習塾跡が小洒落た大学の校舎みたいに描かれていて、グレードアップしている。
○キスショットの瀕死の状態がリアル。
阿良々木に助けを求めるキスショットは、吸血鬼ハンター達に手足を切断され、瀕死の状態。その様が、若干グロテスクに表現されており、これは、テレビ放映では若干問題があるかもしれない。
なりふり構わず、 阿良々木に助けを求めるキスショットの姿はリアルだ。
○吸血鬼ハンター達がリアル。
阿良々木暦を襲う際、三人の吸血鬼ハンターが聞き取れない異語で話し合っている(牽制し合っている)様子がリアルだった。
○忍野メメがいい。
久々に、忍野メメを見たような気がするが、ニヒルな感じがいいですね。「元気いいね。何かいいことあったのかい?」や、「君が勝手に助かったんだよ」という科白も懐かしい。
という感じですね。面白い点だけ、取り上げたが、ちょっと気になったのは、日の丸の国旗が何回か映し出されていたところだ。 あれは何の意味があるのだろうか?
次回作は今年夏ごろの予定。(エンドロールの後、若干、次回予告あり)
やはり、見に行ってしまうのだろうと思う。
以下、感想を述べてみる。
○登場人物の絵が丁寧に描かれている。
予告の動画でも分かる通り、テレビのアニメ版よりも、登場人物の絵が丁寧で、きれいに描かれている。
登場人物は、7名しかいない映画なのだが、阿良々木暦、羽川翼、忍野メメ、キスショット、ドラマツルギー、ギロチンカッター、エピソードともに、アニメ版より絵がいいなと私は思った(単なる好みかもしれないが)。
○阿良々木暦が年相応にいかにも高校生らしく子供っぽくて、リアル。
阿良々木暦が、羽川翼の連絡先をもらって、はしゃいでいるのはいかにもいかにも高校生らしいし、瀕死のキスショットの姿をみて激しく動揺したり、吸血鬼ハンター達の攻撃に怯える姿は、いかにも年相応に子供っぽく描かれていて、私はリアルに感じた。
○阿良々木の家、学習塾跡がグレードアップ。
阿良々木暦の家が洒落たペンションみたいになっていたり、学習塾跡が小洒落た大学の校舎みたいに描かれていて、グレードアップしている。
○キスショットの瀕死の状態がリアル。
阿良々木に助けを求めるキスショットは、吸血鬼ハンター達に手足を切断され、瀕死の状態。その様が、若干グロテスクに表現されており、これは、テレビ放映では若干問題があるかもしれない。
なりふり構わず、 阿良々木に助けを求めるキスショットの姿はリアルだ。
○吸血鬼ハンター達がリアル。
阿良々木暦を襲う際、三人の吸血鬼ハンターが聞き取れない異語で話し合っている(牽制し合っている)様子がリアルだった。
○忍野メメがいい。
久々に、忍野メメを見たような気がするが、ニヒルな感じがいいですね。「元気いいね。何かいいことあったのかい?」や、「君が勝手に助かったんだよ」という科白も懐かしい。
という感じですね。面白い点だけ、取り上げたが、ちょっと気になったのは、日の丸の国旗が何回か映し出されていたところだ。 あれは何の意味があるのだろうか?
次回作は今年夏ごろの予定。(エンドロールの後、若干、次回予告あり)
やはり、見に行ってしまうのだろうと思う。
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