この物語は、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)を開発した堀越二郎(実在の人物)の生涯に、堀辰雄が書いた「風立ちぬ」と「菜穂子」の物語の要素が加えられたものだったこともあり、堀辰雄の作品が急に読みたくなった。
「風立ちぬ」は、夏、避暑地の草原で、熱心に絵を描く節子と、傍で寝そべる私(小説家と思われる)のシーンから始まる。このあたりの描写は映画の避暑地の様子と重なる部分がある。
やがて、二人は婚約するのだが、節子は、私のために病気を治すため、山岳地方にあるサナトリウムでの治療を決意する。ここも 映画と重なるが、異なってくるのは、私が付き添いとして、一緒にサナトリウムに行って、節子と暮らすところだ。
私は、節子との愛を育むものとして、その療養生活を肯定的なものとして捉える。
少しずつ、病状が悪化してゆく節子と暮らす私。
物語は、一見すると静かな生活の断片を積み重ねてゆくだけのようにも思えるが、そこには明らかに死の影があり、それを感じながら必死に愛を確かめ合う二人の姿が描かれている。
そういう意味では、映画で描かれた二郎と菜穂子の恋愛よりも、より重いものを感じる。
「菜穂子」は、菜穂子の母 三村夫人(未亡人)の手記から始まる。母の手記からは、娘 菜穂子との不和が分かる。原因は、三村夫人に恋愛感情を抱く作家と、その感情を完全に拒否していない母の関係があるためだ。
この母の恋愛感情に対する反発が、その後の菜穂子の人生を決定することになる。
彼女は、明らかに彼女に不釣合いと思われる見合い相手 黒川圭介(映画では、堀越二郎の上司の名前と同じ)と結婚することになる。
夫は、家庭では母親とばかり話をするようなサラリーマンで、 菜穂子は決して幸せとは言えない生活を送ることになる。
そんな生活が祟ってか、菜穂子は結核を患い、八ヶ岳山麓の結核療養所に入院することになる。
今まで妻に無関心だった夫も一度、見舞いに来るが、二人の溝は埋まらない。
やがて、菜穂子の幼馴染だった明が彼女を見舞ったことと、不仲だったはずの夫の母親からの手紙をきっかけに、菜穂子の内面に変化が生じる。
菜穂子は、 雪が激しく降る日、療養所を抜け出し、夫が住む東京行きの列車に乗る。
ここは、映画と重なる部分ですね。
しかし、東京で彼女を出迎えた夫の一言は「面倒な事は御免だよ」という冷たい言葉。
さらに、菜穂子は、姑が病気だという理由で、夫の住む家にも帰れず、ホテルで宿泊することになる。
彼女は、夫に対して、何故、東京に来たのかという理由を、こんなふうに説明する。
「雪があんまり面白いように降っているので、私はじっとしていられなくなったのよ。聞きわけのない子供のようになってしまって、自分のしたい事がどうしてもしたくなったの。それだけだわ。……」一見すると滑稽なような気がするが、死の影を感じながら、自分が選択した人生の意義を必死になって確かめている行為にも思える。
映画の「風立ちぬ」の物語と比較すると、いかにも、小説の菜穂子は可哀想な気もする。
しかし、たとえ、そこに愛する夫がいようがいまいが、二人の菜穂子の思いは根っこの部分では同じものだったのではないだろうか。
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