一つには限られた時間内で製作者が抽出した史実のみを見せられるということ、二つ目には特にドラマ仕立てのものには、感動を誘おうとしたり、美化しようとしたりして、どこかに嘘があると感じることが多いことだ。
そういう気持ちを感じさせないもの、それは文章しかない。
大岡昇平の「レイテ戦記」は、太平洋戦争末期、日本の敗戦を決定的なものにしたフィリピン レイテ島で行われた日米両軍の激しい戦闘の事実を簡明な文章で詳細に描き出している。
膨大な資料(四百冊を超える様々な種類の日米双方の書誌)と、二十もの図版(戦地図、地図、年表、軍編成の表)に基づき、多面的な観点から正確な事実を掘り起こそうとした紛れもなく第一級の戦記なのだが、同時に第一級の文学でもあるという稀有な本だ。
この本を一人で書き上げた大岡の知力と忍耐力に敬服する一方、彼のこの本を書かずにはいられなかった強い気持ちを感じる。
言うまでもなく、大岡本人が歩兵として現地に出征していたという事実が大きく影響している。
日本のフィリピン決戦参加兵の数は約 592,000人、うち戦没者数は約 464,925人。実に約78%が戦争で命を落とした。
しかも、軍事上の作戦の不手際で、無意味に死んでいった たくさんの兵士がいた。
なぜ、自分は死ななければならなかったのか?
私の死は無意味なものだったのか?
そんな死者の無念を慰める唯一の方法は、可能な限り事実を正確に洗い出し、「七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現」することだと、大岡は考えた。
たとえ、大きな戦争の歯車の動きから見れば、局地的な作戦計画だったとしても、それは現にその場にあって戦っている将兵にとっては生きるか死ぬかの問題だから、前線指揮官の発する攻撃命令はもとより、師団参謀の立てる作戦、大本営の作戦、敵軍の作戦と行動、大局的な戦況まで、その作戦の背景を遡ってゆく。
戦死者とその遺族に、なぜ、死ななければならなかったのか、その真実を伝えるために。
そして、よく戦ったものを評価もしている。
例えば、神風特攻に関する記述
口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平交渉に入るという戦略の仮面をかぶった面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。
しかし、これらの障害にも拘わらず、出撃数フィリピンで四〇〇以上、沖縄一九〇〇以上の中で、命中 フィリピンで一一一、沖縄で一三三、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。
想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。なお、本書の最終章であるエピローグでは、 レイテ島の戦いの結果、最も被害を受けたのは、フィリピンの人々であることにも触れている。そして、この中で、興味深いのは、日本ではひどく評判の良いマッカーサーについて、縦断爆撃を行ったことでマニラ市を徹底的に破壊したこと、戦後、フィリピンにおいて戦前よりも過酷な植民地支配を行ったことを指摘している。もちろん、その契機を作った日本の責任にも。
共産国封じ込めの基地として、フィリピンには台湾や沖縄のような有効性、重要性はない。東洋における民主主義のとりでとして、アメリカが日本占領に期待をかけていたことはその後の経過が示している。
日本は旧式ながら近代国家の軍備を持ち、極東でアメリカよりも有利に行動できた間、それは脅威であった。しかし正に屈伏させられようとしていた一九四五年では、近代的なドッグ、飛行機工場、鉄道網と、九千万のよく教育された人口を持つ有力な下級国家であった。
国民は習慣的事大主義を持ち、一人の天皇を味方につけることが出来れば、フィリピン人より容易に手なずけることが出来そうであった。下級国家、習慣的事大主義…
大岡の視点はシニカルすぎるような気もするが、今の日本を見ると、これらの指摘は残念ながら当てはまりそうである。
日米安保条約にしても、集団的自衛権にしても、沖縄の基地問題にしても、政府の対応を見る限り、日本はアメリカの属国的な立場で生きていくことを宣言しているように思えるし、いわゆる無党派層といわれる多数派の国民は、特に定見もなく、時々の強者に従っていくだけのような存在のようだ。
このように、「レイテ戦記」は、決して過去の読み物ではない。最後の文章の通り、「その声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである」。
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