2014年8月31日日曜日

池澤夏樹が始めた電子書籍

池澤夏樹が株式会社ボイジャーと組んで、自身の作品の電子書籍化を本格的に始めたらしい。

http://dotplace.jp/archives/10786

この記者会見の記事を読むと、ボイジャーの電子書籍ビジネスは、作家の報酬の取り分が、紙の本と比較して格段に高いことが分かる。

紙の本は、通常、作家の取り分は10%

しかし、このボイジャーの電子書籍では、30~40%になるらしい。

これは、作家にとっては大きなインセンティブになるだろう。

もう一つ、目を引いたのは、Romancer(ロマンサー)という出版方法の仕組みである。

https://romancer.voyager.co.jp/

 ・作家は、自分が書いたWord、PDF等のデータを、Romancerのサイトにアップロードするだけで、簡単に電子書籍が作れる。

 ・EPUB 3という電子書籍のマスターデータを、作家自身が保持することができ、色んな電子出版会社に提供できる。

 ・アプリをダウンロードしなくても、Webベースで作品を閲覧することができる。

紙の本の出版を思えば、非常に簡便でオープンな方法と言えよう。

また、既存の出版社に対し、電子書籍の売上の10%を支払うというボイジャーの方針も、ある意味すごい。

日本の出版契約では、出版会社が、その本の独占出版権を持つという契約が一般的である。
つまり、契約を締結すると、以後、その出版会社の承諾を得ない限り、作家本人であっても、出版できないことになってしまう。

池澤夏樹は、記者会見で、紙の出版では、このような出版会社との契約もあり、丸谷才一の全集ですら、全12巻しかまとめることができなかったことを嘆いている。(本当は30巻ぐらいの著作のボリュームがあるらしい)

ボイジャーの戦略の上手いところは、既存の出版会社を敵に回さず、お宅にもフィーを支払うから、電子出版させてくださいよという有効な妥結案を提示しているところだ。

このようなボイジャーの戦略上手も、彼が電子書籍化に踏み切った大きな理由らしい。

日経の記事では、「従来の出版市場が縮小を続ける一方で、電子出版は5年後に3000億円超に成長するとの予測がある」とのこと。

池澤夏樹作品の電子書籍化は、その流れを象徴するような出来事だと感じた。

*最初、池澤夏樹の電子出版した短編小説の感想を書こうと思っていたが、この電子書籍ビジネスの話の方が、思ったよりインパクトが大きいことに気づいた。

2014年8月27日水曜日

終物語 上/西尾維新

終物語 上巻は、主人公である阿良々木暦が、「友達を作ると人間強度が下がる」と言うようになったきっかけとなる高校1年生の時の事件、遡って、彼が数学が得意科目となるきっかけとなった中学1年生の時の事件、さらに遡って、阿良々木暦を敵視する複雑な家庭環境の女の子が抱えた事件を、敵か味方か定かでない忍野扇と、彼女と仲が悪い羽川翼がホームズ役となり、阿良々木暦をワトソン役にして、何があったのかを解明していく推理小説仕立ての内容になっている。

忍野扇と、猫物語以降の羽川翼が、互いの推理力で対決するくだりは、読んでいて面白いものがあったが、やはり推理小説仕立てであって、推理小説とは言えないものだった。

そう思う一番の理由は、ほとんどの謎が、まるで痴呆のように記憶を喪失した阿良々木暦が語っていない部分に、真実が隠されているというオチになっているからだ。

この本で、阿良々木暦は怖いくらい重要な過去について記憶を喪失している。
それはたとえ故意でなかったとしても、彼が無意識に真実から目を背けた結果なのだろう。

そして、それはつまり、重要な真実から目をそらした結果、怪異に憑りつかれ、あるいは怪異を生み出してきた羽川、戦場ヶ原、八九寺、神原、千石といった少女たちと、いつも、彼女たちを助けていた阿良々木暦は実は同じ状況にあったということを意味する。

2014年8月25日月曜日

コレラの時代の愛/ガルシア・マルケス

こんな恋愛小説は、読んだことがない。

なぜなら、主人公の船会社の社長 フロレンティーノ・アリーサと、その初恋の人である有名な医者の未亡人 フェルミーナ・ダーサは、七十歳を過ぎた、死に近い老人なのだから。

物語のはじまりも変わっている。

主人公ではなく、フェルミーナ・ダーサの夫 フベナル・ウルビーノ博士の一日から始まり、彼が事故で死に、フロレンティーノ・アリーサが、夫を亡くしたフェルミーナ・ダーサに愛を誓うところまでを最初に描く。

それは、フロレンティーノ・アリーサが、未亡人 フェルミーナ・ダーサに愛を告白するまで待った、五十一年九ヵ月と四日目だった。

そして、物語は、フロレンティーノ・アリーサとフェルミーナ・ダーサの出会いの時に遡る。

お金はあるが、マフィアのように怪しいビジネスに手を染めている父親を持つ美しい少女フェルミーナ・ダーサと、船会社事業を創設した男の内縁の子として母親に育てられたフロレンティーノ・アリーサ。

二人の出会いと別れ。
そして、フェルミーナ・ダーサの結婚。

数多くの女性と関係しながらも、フロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサを想う心だけは失わずにいた。

そして、決して不幸ではない二人の別々の人生をたどりながら、無情にも年月は過ぎてゆき、物語は最初の場面へと戻ってゆく。

この物語の面白さは、何といっても、主人公がラブレターでもって、相手に愛情を伝えるシーンが多いことだろう。

恋愛への情熱を燃やすフロレンティーノ・アリーサは、フェルミーナ・ダーサには出せない手紙の思いを持て余し、街の代書屋として、数々のカップルのラブレターを無料で代書するサービスをはじめる。

ある日、内気な感じの女の子が、受け取ったばかりの、答えを返さずにはいられないラブレターに返事を書いてもらえないかと、フロレンティーノ・アリーサに震えながら頼みにくる。

フロレンティーノ・アリーサは、その手紙が自分が前日の午後に書いたものだということに気づく。
彼は、女の子が受けた感動と年齢にふさわしい文体を使い、自分が書いた手紙に対する返事を書いてあげる。

そして、彼は、自分自身を相手に熱に浮かされた手紙をやり取りする羽目になり、やがて、そのカップルは結婚する。

夫婦は、ひとり目の子供が生まれたとき、偶然、自分たちのために手紙を書いてくれた代書屋が同じ人物であることが分かる。
彼らは、揃って、フロレンティーノ・アリーサを訪ね、名付け親になってくれないかと頼む。
(いい話ですね)

やがて、フロレンティーノ・アリーサは、数々のラブレターのテンプレートを一冊の本にまとめる。しかし、出版のお金がなかった。

やがて、彼に経済的な余力が出来たとき、悲しいことにその頃にはラブレターを書く人間はいなくなっていた。(これも皮肉が利いている)

フロレンティーノ・アリーサの五十ぶりの愛の告白を受け、戸惑うフェルミーナ・ダーサだが、その二人の時間の溝を埋める役割を果たしたのも、彼の書いた手紙だった。

少しずつ、フロレンティーノ・アリーサに惹かれてゆくフェルミーナ・ダーサだったが、この物語は二人の隠しきれない老いと、それに気づいている当人同士のひそかな困惑をつつみ隠さず描く。

そういった目にしたくないものまで含めて、人を愛せるだろうかと疑ってしまうくらい。

フロレンティーノ・アリーサの最後の言葉が素敵だ。

こんなにカッコいいエンディングを誰が想像しただろう。

2014年8月24日日曜日

真夏の冷え冷え

暑いから、ひんやりとした感触をイメージしてみる

かき氷とか、冷たい飲み物ではなく

お化け屋敷とか、怪談とか、もっと精神的なもの

たとえば、一九一六年の冬、ミュンヘンで開かれた「新しい文学の夕べ」で行われた若い作家たちの自作朗読会をイメージしてみる

一人の作家は、こんな物語を語りはじめる

司令官から死刑執行の立ち合いに招かれた旅行家が見る奇妙な機械

その機械は、下部が「ベッド」、中間部が「馬鍬(まぐわ)」、上が「製図屋」と呼ばれている機能で構成されている

「ベッド」に縛り付けられた囚人を、「まぐわ」に取りつけた針が、「製図屋」の指示により刺し、刻んでいく

死刑執行を行う将校。彼は、前の上司である司令官が作ったこの機械を信奉している

将校は、今の司令官に、この機械による処刑方法を廃止される恐れがあることを察知し、自分の味方になってくれるよう、旅行家に頼む

しかし、説得に失敗し、将校は、処刑予定であった囚人を機械から外し、自分の身体を使って機械による処刑を行う

グロテスクな機械の動きと身体を刺し貫く長い針

作品名は「流刑地にて」

作者は、フランツ・カフカ

会場にいた作家の印象

「…黒い髪、蒼ざめた顔、その全身が当惑を隠しきれないでいる」

朗読中に聴衆の三人が失神し、会場から運び出された

カフカが生涯に行った唯一の自作朗読会

彼の作品は、よく未来を予見しているような内容だと評されるが、この作品も例外ではない

二十年あまりのちにナチス・ドイツが行ったことを思えば

迫害されたユダヤ人にとって、それはさらにグロテスクで巨大な「流刑地」に他ならなかった

引用 「流刑地にて」の翻訳者 池内紀氏の解説より

2014年8月18日月曜日

百年の孤独/ガルシア・マルケス

面白いのは分かっているのだが、なかなかページが進まなかった「百年の孤独」

人物の名前と相関関係が覚えられない。
同じことを何度も読んでいるような錯覚に陥る。
まとまった時間が取れない等々。

やはり一冊の本は、三日以内に読み切るのがベスト。

今回、休みの時間と、池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」に収められている「ブエンディア家系図」、「マコンド<百年の歴史実話・抄>」の助けもあって、ようやく読み切ることができた。

特に<あだ名>が付いている家系図の存在が大きかった。

ブエンディア家では、近親婚が多いせいで、父母、祖父母と同じような名前が付けられたり、性格も似通っているというせいで、誰の物語なのか読み進めるうちに分からなくなってしまい、混乱してしまうのだから。
(物語中、ブエンディア家を支えていた偉大な母ウルスラでさえ、曾孫の兄弟を取り違えてしまう)

しかし、この込み入った人物関係を確認しながら読み進めると、物語に集中する時間が途切れない。

最後の章、今までの一家の歴史を振り返るような預言書の言葉とともにブエンディア家が蟻地獄に吸い込まれるように消えてゆき、マコンドの町も崩れ去っていくあたりは圧巻でした。

ブエンディア家一族は、誰も個性的なのだが、強く印象に残ったのは、

・ホセ・アルカディオ・ブエンディア<最初の者>
・ウルスラ<家刀自>
・アウレリャノ<大佐>
・アマランタ<黒い繃帯>
・レベーカ<もらわれっ子>
・レメディオス<小町娘>    <>は、池澤氏が付けたあだ名

上記の面々だろうか。
やはり、初代、2代目までが多い。

マコンドの町を作った偉大な初代と、個性が強い二代目、若干影が薄くなる三代目、二代目の面影を強く感じさせる中興の祖的な四代目、能力はあるがマコンドにいるせいで不幸になってゆく五代目と六代目、そして、蟻のむさぼる七代目。

近親婚、畸形児、超常現象、猥雑、貧富の波、不透明な政治体制、革命、暗殺、老い、世代交代。
百年という永遠にも感じる時間の中で、盛衰を繰り返したブエンディア家とマコンドの町。

しかし、いつかは終わる時が来るのだと思うと、その読後感は深さを増すばかりだ。

2014年8月17日日曜日

花物語/物語シリーズ

原作は読んでいたのだが、大人げなく、やはり気になって見てしまった。

改めて、アニメを見ると、やはり、沼地蠟花という存在は何だったのかというのが、とても気になる。

神原駿河の中学時代のバスケットボールのライバルである彼女は、スポーツ推薦で進学した高校で、疲労骨折をしてしまい、家庭の事情もあり、学校を辞めてしまう。
これは、ネタバレになってしまうが、実は自殺で亡くなっている。

彼女が学校を辞めてから、何故、他人の不幸話と悪魔の体の部位を蒐集しはじめるのかを、神原 駿河に独白するシーンがあるのだが、彼女が学校を辞めた直後、自殺で死んでいる以上、その話は架空のもののはずだ。

しかし、悪魔の体の部位を蒐集しはじめるきっかけとなった花鳥櫻花の話なんかは、相談者の名前は嘘っぽいが、その中身は妙にリアリティがあり、切実なものに感じた。
(沼地蠟花の声優さんの声はイメージとは違ったが、いいと思う)
助けてくださいなんて、彼女は切実に言ってきた。
彼女は制服の下にジャージをはいていてね、だるんだるんのジャージだった。
ちょうど今、私が着ているような。
彼女は私の目の前で、そのジャージを脱いだ。
分かるよね。彼女の足は悪魔の足となっていた。
この足が勝手に私のお母さんを殺そうとするんです、と彼女は言った。
彼女には将来を誓い合った恋仲の大学生がいて、その男の子を身ごもったそうなんだ。
そして、その後、当然、親から大いに反対され、中絶するように言われた。
それで彼女は悪魔に頼った。
彼女は左足のミイラに祈ったのさ。
悪魔は母親を消すという形でそれを実行しようとした。
花鳥さんの足に憑りついてね。
失敗したんだ。それ自体は。
夜中にトランス状態になった花鳥さんは、同じ屋根の下で寝ていた母親を、しこたま蹴ったものの、結果、死には至らなかった。
母親を入院に追い込んだ犯人は自分であることはすぐに分かった。
そして、彼女はついに進退窮まったという訳さ。
その時、私は何を考えたと思う。
私は助けてあげたいと思ったんだよ。
だから、私は彼女を抱きしめた。
何も言わず強く強く力強く。
そして言った。「大丈夫。あなたの悩み事は私が全部引き受けた。絶対に解決してあげるから。だからもう、何も心配しなくていい。」 
そんな無責任なことを彼女の耳元で囁いた。
私の脳裏には、佐世保の事件を起こした女子高生の事が頭をよぎったし、もしかしたら、彼女は、父親を金属バットで殴った後、沼地蠟花のような存在を求めていたかもしれないと思った。

そして、それは神原駿河にとっても、同じだったのかもしれないということも。
彼女は、沼地蠟花という存在を必要としていた。

もし、沼地蠟花が幽霊だったとしたら、神原駿河が見たものは、彼女が心の奥底で求めていた助けが具現化したものであり、自分の罪の告白を聞いてくれて、彼女の暗い過去を洗い流し、背中を前に押してくれる理想の友人だったのかもしれない。

私は、沼地蠟花が神原駿河に話していた
「友達作ったり、恋したり、本読んだり、携帯いじったりしていればいいと思うんだ」

という科白が皮肉ではなく、実は神原駿河の本当の願いだったのではないかと思った。

**         **         **

ところで、貝木泥舟の髭面は、阿良々木暦の不自然な長髪ほどではないが、ちょっと違和感を感じた。
その貝木泥舟と神原駿河が初めてあった場面は、やはり、神原駿河が町を出た理由について、オープンキャンパスで出かけていたというエピソードはいれてほしいと思った。

貝木泥舟とオープンキャンパスのミスマッチが原作を読んでいるとき、心に残ったからだ。

また、二人が駆けっこした駅は、明らかにJR品川駅をモチーフにしていたが、私のイメージでは、東急田園都市線 溝の口駅あたりが、ちょうど鄙びた感じでベストのような気がする。
(近くに学校もあるしね)

2014年8月16日土曜日

レイテ戦記/大岡昇平

戦争というものが、どんなものなのかを振り返る方法として、ドキュメンタリーや映画を見るというのも一つの方法だと思うが、個人的にはいつも消化不良を感じてしまう。

一つには限られた時間内で製作者が抽出した史実のみを見せられるということ、二つ目には特にドラマ仕立てのものには、感動を誘おうとしたり、美化しようとしたりして、どこかに嘘があると感じることが多いことだ。

そういう気持ちを感じさせないもの、それは文章しかない。

大岡昇平の「レイテ戦記」は、太平洋戦争末期、日本の敗戦を決定的なものにしたフィリピン レイテ島で行われた日米両軍の激しい戦闘の事実を簡明な文章で詳細に描き出している。

膨大な資料(四百冊を超える様々な種類の日米双方の書誌)と、二十もの図版(戦地図、地図、年表、軍編成の表)に基づき、多面的な観点から正確な事実を掘り起こそうとした紛れもなく第一級の戦記なのだが、同時に第一級の文学でもあるという稀有な本だ。

この本を一人で書き上げた大岡の知力と忍耐力に敬服する一方、彼のこの本を書かずにはいられなかった強い気持ちを感じる。

言うまでもなく、大岡本人が歩兵として現地に出征していたという事実が大きく影響している。

日本のフィリピン決戦参加兵の数は約 592,000人、うち戦没者数は約 464,925人。実に約78%が戦争で命を落とした。

しかも、軍事上の作戦の不手際で、無意味に死んでいった たくさんの兵士がいた。

なぜ、自分は死ななければならなかったのか?
私の死は無意味なものだったのか?

そんな死者の無念を慰める唯一の方法は、可能な限り事実を正確に洗い出し、「七五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現」することだと、大岡は考えた。

たとえ、大きな戦争の歯車の動きから見れば、局地的な作戦計画だったとしても、それは現にその場にあって戦っている将兵にとっては生きるか死ぬかの問題だから、前線指揮官の発する攻撃命令はもとより、師団参謀の立てる作戦、大本営の作戦、敵軍の作戦と行動、大局的な戦況まで、その作戦の背景を遡ってゆく。
戦死者とその遺族に、なぜ、死ななければならなかったのか、その真実を伝えるために。

そして、よく戦ったものを評価もしている。

例えば、神風特攻に関する記述
口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平交渉に入るという戦略の仮面をかぶった面子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。
しかし、これらの障害にも拘わらず、出撃数フィリピンで四〇〇以上、沖縄一九〇〇以上の中で、命中 フィリピンで一一一、沖縄で一三三、ほかにほぼ同数の至近突入があったことは、われわれの誇りでなければならない。
想像を絶する精神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これは当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。今日では全く消滅してしまった強い意志が、あの荒廃の中から生まれる余地があったことが、われわれの希望でなければならない。
なお、本書の最終章であるエピローグでは、 レイテ島の戦いの結果、最も被害を受けたのは、フィリピンの人々であることにも触れている。そして、この中で、興味深いのは、日本ではひどく評判の良いマッカーサーについて、縦断爆撃を行ったことでマニラ市を徹底的に破壊したこと、戦後、フィリピンにおいて戦前よりも過酷な植民地支配を行ったことを指摘している。もちろん、その契機を作った日本の責任にも。
共産国封じ込めの基地として、フィリピンには台湾や沖縄のような有効性、重要性はない。東洋における民主主義のとりでとして、アメリカが日本占領に期待をかけていたことはその後の経過が示している。
日本は旧式ながら近代国家の軍備を持ち、極東でアメリカよりも有利に行動できた間、それは脅威であった。しかし正に屈伏させられようとしていた一九四五年では、近代的なドッグ、飛行機工場、鉄道網と、九千万のよく教育された人口を持つ有力な下級国家であった。
 国民は習慣的事大主義を持ち、一人の天皇を味方につけることが出来れば、フィリピン人より容易に手なずけることが出来そうであった。
下級国家、習慣的事大主義…

大岡の視点はシニカルすぎるような気もするが、今の日本を見ると、これらの指摘は残念ながら当てはまりそうである。

日米安保条約にしても、集団的自衛権にしても、沖縄の基地問題にしても、政府の対応を見る限り、日本はアメリカの属国的な立場で生きていくことを宣言しているように思えるし、いわゆる無党派層といわれる多数派の国民は、特に定見もなく、時々の強者に従っていくだけのような存在のようだ。

このように、「レイテ戦記」は、決して過去の読み物ではない。最後の文章の通り、「その声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである」。

2014年8月3日日曜日

佐世保女子高生殺人事件に思う

この事件の概要をニュースで知るにつけ、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる少女ユキと、西尾維新の「猫物語(白)」の主人公 羽川 翼を思い浮かべてしまう。

この事件を起こしてしまった加害者の女子高生と、この小説の二人に相似性を感じてしまうのだ。

まず、一つ言えるのは、加害者の女子高生はネグレクト(育児放棄)の状態にあったのではないかということだ。

この事件の加害者は、高校1年生。成長期とはいえ、まだまだ、親が面倒をみて、かまってあげることが必要だったと思う。

私も一人暮らしを大学1年から始めた口だが、部屋に閉じこもってばかりいると、誰とも口を利かないし、社会との接触もなくなる。

そんな何で、人よりも強い知的好奇心と行動力が犯罪の方向に傾いてしまっても、自分を抑止してくれるものがない。

まして、この子には、実母を亡くし、直後に父親が別の女性と再婚するいう急激な家庭環境の変化があり、それが原因だと思うが不登校の事実もあった。

父親が、もし、「お前はもう大人なのだから、自分の問題は自分自身で解決すべきだ。私はお前の自主性をできるだけ尊重するつもりだ」というような事を言っていたとしたら、悲劇である。

勉強もスポーツも人並み以上にできる能力を持った子供であればあるほど、また、父親を好きであればあるほど、その期待に応えようとするのではないか。

警察の取り調べに対して、「父親の再婚について初めから賛成している。父親を尊敬している。母が亡くなって寂しかったので新しい母が来てうれしかった」などと述べているコメントにも、その期待に応えようとしている彼女の意思が感じられる。

父親をバットでなぐった彼女の行動にこそ、父親は真剣に向き合うべきだった。

(報道によると、父親はバットでなぐられた際、精神科医に娘の入院を勧められたがこれを拒否し、自分の命を守るために娘に一人暮らしをさせたというが、これが本当だとしたら、親としての監護義務を放棄したのに等しい)

村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」に出てくる十三歳の少女ユキも、離婚した両親からネグレクトされていて、一人で都心の高級マンションに住んでいる。彼女には芸術的なセンスがある。

両親には、彼女を親として責任をもって育てようという意思はない。

父親は金銭的に援助はするが、娘に感覚が合わないと拒絶されることを理由に育児には参加せず、感受性が似通った母親からは「親子としてではなく友達になりたい」と求められ、少女は困惑する。
(その少女の危機を、この物語では「僕」が助けようとする)

今回の事件では、加害者の女子高生は、父親とともにスピードスケート競技に参加するなどしていて、一見、仲が良かったらしいが、もし、父親が娘に、親子ではなく友達の関係を求めていたとしたら、これも悲劇である。

「猫物語(白)」の羽川 翼も、両親の病死・離婚が重なり、血の繋がっていない義理の父母からネグレクトされている(彼女は自宅に「自分の部屋」がなく、廊下で寝ていた)。

しかし、羽川 翼は、そんな自分の境遇について、義理の父母に不平不満を言う訳でもなく、常に品行方正に明るく振る舞おうとする。勉強も学年1番の成績を維持しており、行動力もある。

だが、彼女の心に溜まったストレスは、彼女をブラック羽川(猫の怪異)に化身させ、街の人々を襲い、精気を吸い取る事件を引き起こす。

そして、それに留まらず心に溜まった嫉妬心が、苛虎という強力な虎の怪異を生み出し、彼女が嫉妬心を抱いた義理の父母、自分を助けようとしてくれた友人の家まで焼き尽くそうとする。

しかし、苛虎が友人の戦場ヶ原ひたぎの家を燃やそうとしている危機を察知したとき、羽川 翼は、自分が育児放棄の虐待を受けている事実を認め、自分の闇の心に立ち向かおうと決心する。

何故、羽川翼は、友人を傷つける前に立ち止ることが出来たのか。

一つには、月並みだが、羽川翼には、本当に彼女の身を案じてくれる人が傍にいたからということなのだと思う。

人は、誰かに大事にされている自分を実感できなければ、誰かを大事にしようという思いには至らない。

羽川翼が自宅の火事で、泊まるところもなく、廃墟で一人寝ていたところを、真夜中まで探し続けてきた友人の戦場ヶ原ひたぎは泣きながら彼女を叱りつける。「何故、自分自身を大事にしないのか」と。

そして、彼女が苛虎に負けそうになった時(彼女が凶暴な自我である虎を抑えられなくなった時)、それを退治することができる力(妖刀)を持った友人の阿良々木もいた。

羽川翼と対等、もしくはそれ以上の能力をもった人が彼女の精神的な危機を見逃さず、助けようとしたという条件も必要だったのかもしれない。

現実社会で、戦場ヶ原や阿良々木のような友人を持つことはやはり難しい。

今回の事件で、それが出来たのは、女子高生とたまにご飯を一緒に食べる機会を持っていた学校の先生と、危機を察知していた精神科医だったのかもしれない。

しかし、それだけでは足りず、彼女の悪を鎮める「妖刀」の存在も必要だったのだろう。

その「妖刀」が具体的に何だったのかは分からない。

でも、それはおそらく、彼女が傷ついている自分自身を認め、自分に向き合うきっかけをくれるものだったのに違いない。

2014年8月2日土曜日

ディフェンス/ウラジーミル・ナボコフ

ナボコフが書いたチェスの小説。

さぞかし、巧緻に入り組んだチェスの戦いが描かれているのだろうと思いきや、読み終わってみると、むしろ主人公がチェスから遠ざかっている(遠ざかろうとしている)展開の方が長かった。

主人公のルージンは、ロシアの作家の息子でありながら、学校では、うだつの上がらない生徒だった。それがある日、叔母にチェスを教えてもらったのをきっかけに、その才能を開花させる。

やがて、彼は、チェスのマエストロとして有名になったが、実生活では、やはり無能力かつ肥満気味のうだつの上がらない男になっていた。

そんな彼を奇跡的に好きになった女の子と恋仲になるのだが、トゥラーティとのチェスの優勝決定戦で、神経衰弱となり、その試合を放棄してしまうだけでなく、以降、チェスの活動ができなくなってしまう。

物語中、もっとも読みごたえがあるのは、音楽に例えられたこの優勝決定戦におけるチェスの駒の動きとルージンの意識の動きである。
最初のうちはまるでミュートをはめたヴァイオリンのようにそっと、そっと進行した。両者は用心しながら布陣を敷き、あれこれの駒を丁寧に進め、狙いがあるようなそぶりはまったく見せなかった。
そして、なんの前触れもなく、弦がやさしく鳴り響いた。それは対角線を制しているトゥラーティの駒だった。しかしただちにかすかな旋律がルージン側にもそっと現れた。 
トゥラーティは退却し、引きこもった。そしてまたしばらくのあいだ両者は、まるで前進する気がまったくないかのように、自陣の手入れに専念した――手を入れ、組み替え、整える。 
そのときまた突然に火花が散り、すばやい音の組み合わせが轟いた。二つの小隊が衝突し、どちらもすぐに一掃されたのだ。
 こんなふうに、戦いの序章から、徐々に激しい駒の動きが展開していくさまがイメージとして思い浮かぶ文章が素晴らしい。

訳者の若島正は、「ロリータ」の翻訳者でもあるが、チェスプロブレム(詰将棋のようなもの)の国際マスターの称号を得ているので、この本の翻訳者としては最適な人物かもしれない。

全くの個人的な感覚であるが、この小説を読んでいると、どうも、キューブリックの映画に出てくる役者や映像のイメージがチラチラと思い浮かんでしまう。

実際にキューブリックが「ロリータ」を映画化したということもあるが、彼がチェス好きとしても有名だったということも意識にあって、そう思うのかもしれない。

☆おまけ
http://chess.plala.jp/chess_beta.html