2018年11月5日月曜日

松風・薄雲/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

いよいよ、中巻が発売されたため、残りの章を慌てて読む。

「松風」は、光君が明石に流されていたときに関係を持った明石の御方が、光君の誘いもあり、京の都に移り住むことになるが、他の姫との出自との違いに悩み、父親の入道が、昔領地であった大堰の家を修理し、娘である御方を住まわせることにする。

明石と京の距離は、この時代はやはり遠かったのだろう。
父親の入道は、生涯の別れのような言葉を口にする。

しかし、大堰の家を訪れた光君は、明石の御方の成熟した美しさに感じ入りながらも、その姫の可愛らしさに心ひかれる。

そして、大堰の家に通うことをこころよく思っていない紫の上に対して、明石の御方の姫を引き取るので、あなたが姫を育ててほしいと頼む。

一見、紫の上の機嫌取りのようにも思えるが、姫を日の当たる場で育ててあげたいという親心も感じる。

「薄雲」では、明石の御方の姫をいよいよ光君の住む屋敷に引き取る一方、藤壺の宮が病に臥せり、亡くなってしまう。
彼女は、光君との関係をついに外部に漏らさなかったと思われたが、彼女のかかりつけの僧に対しては、冷泉帝を身籠ったときと、光君が明石に追放になったときに、祈願のために僧に真実を説明していた。

その僧は黙っていればいいものを、よりによって冷泉帝その人に話してしまう。
冷泉帝はひどく動揺し、悩んだ挙句、光君に帝の地位を譲渡したいと相談し、光君はそれは絶対に受けられないと辞退するが、誰が漏らしたのかが気になる。

このやり取りの後、冷泉帝に嫁いだ六条御息所の娘斎宮女御と光君が対話する場面があるのだが、驚いたことに、光君はその女御に対して、思いを交わしたいと口説いてしまう。
(自分の息子の嫁だというのに)

斎宮女御は、母親同様、しっかりした娘らしく、その申し出を断るのだが、藤壺の宮との事でも懲りない光君のタブー超えの病が垣間見える。




2018年11月4日日曜日

J・ハバクク・ジェフスンの遺書・あの四角い小箱/コナン・ドイル

「J・ハバクク・ジェフスンの遺書」は、乗員乗客十四名を乗せて、アメリカのボストンを出航し、ポルトガルのリスボンに向かっていたマリー・セレスト号が、1か月後、無人の状態で海洋を漂っていたところを発見される。

一体、船で何が起きたのか?
その事実を乗客の一人で、唯一の生存者であった結核症専門医ジェフスン博士が告白するという物語だ。

船では、船長の妻と子供が行方不明になり、次いで気落ちした船長がピストル自殺する事件が立て続けに起きる。それらは事故・自殺と思われていたのだが、実は...

まだ船が主要交通の手段であった時代の白人たちは、この物語を読んで戦慄が走ったことだと思う。

冒頭、ジェフスン博士が黒人の老婆からもらった黒い石の正体が、物語後半で明らかになる。

「あの四角い小箱」は、同じくアメリカのボストンを出航しヨーロッパへと向かう遠洋航路の蒸気船に乗り込んだ文筆を稼業とする神経質な主人公が、引き金がある謎の小箱を持ち込み、不審な計画を話し合う二人組の男らを見つけ、彼らが船の爆破をたくらんでいるのではないかと疑う物語だ。

偶然乗り合わせていた主人公の友人は、過去に主人公が幽霊を見たと大騒ぎした事件(真相は主人公が鏡に映っていただけ)を取り上げ、主人公の話を全く真剣に受け取らない。

それでも執念深く、不審な二人組を監視していた主人公は、ついに小箱の引き金を引こうとする二人組を見つけ、制止しようとするのだが、実は...という物語だ。

この二つの物語、とてもバランスよく配置されている。
いずれも映画化されていても、おかしくないような作品だ。

2018年11月3日土曜日

文学部唯野教授の虚構理論/筒井康隆

文学部唯野教授」の最後のほうで、唯野教授が語っていた文学理論「虚構理論」について語った内容が文藝別冊に載っていた。

筒井康隆は、「虚構理論」を「読者の側から小説に対して感情移入した感情移入論による文学史」と説明している。

1.自然主義的リアリズム・私小説的リアリズム
 田山花袋の「蒲団」に代表される日本の自然主義文学に否定的なところは、ほぼ、丸谷才一と同じ主張のように思ったが、フランスでは、遺伝や社会環境といった因果律の中で人間の本質を見出そうとするものだったという真面目な説が紹介されていて、なるほどと思った。
 「私小説の主人公のキャラクターはドラマに優先しているという点で、現代のライトノベルというジャンルに特徴的な、キャラクター小説の要素にまで繋がっている」という指摘は鋭い。

2.映画的リアリズム
 今日、「映画の影響を受けていない小説を探すのは難しい」と言い切っており、筒井康隆自身のドタバタスラップスティックも、その影響を受けていると分析している。
 小説の文章を読みながら、映画のシーンのようなイメージを頭に描いたりすることは確かに多いので、映画というツールは小説の補完的な役割も果たしているのかもしれない。
 
3.漫画的リアリズム
 漫画について「実在の人物なり動物をデフォルメした記号だとされてきたが、デフォルメした記号である人物にさえ、たとえば性欲を覚えたりする。それは記号でありながら身体性を持っているということです」という説明が興味深い。
 漫画にこの身体性に加え、文学性を持ってきた最初の人が手塚治虫だったという指摘もうなずける。

4.アニメ的リアリズム
 アニメで生まれた「おたく」や「萌え」が、次第にライトノベルのほうに流れていっていると説明している。
 「ライトノベルとは、物語というよりはキャラクターの媒体です。キャラクターを立てることによって商品化されたり、二次使用のマーケットが広がっていくわけです」という分析が鋭い。

 この講演の最後、筒井康隆は、皆にライトノベルを書くようにせがまれて困っているというような態度で締めくくっているが、本当のところは、どうだったのだろう。

 実際、筒井康隆はこの1年後にライトノベル「ビアンカ・オーバースタディ」を書いているが、実は、彼が1970年代に書き終えていた「七瀬三部作」(特に七瀬ふたたび)も、”キャラクター”が立っているという点から言えば、ライトノベルの先駆的な作品だったのかもしれない。

冒頭の「感情移入」という言葉に引っかかっていたのですが、この「虚構理論」、なにげに説明されているが、どうも、ハイデガーの哲学理論と関係しているみたいですね。