2014年11月29日土曜日

古事記 池澤夏樹 訳/日本文学全集 01

池澤夏樹が現代語訳した古事記を読んでみた。

私は、古事記というと日本最古の書物という程度の知識しかなかったが、本書の作られた背景と、その構成は興味深かった。

古事記が作られた最大の理由は、「みなみなの家に伝わる帝紀と旧辞は今では事実を離れてずいぶんと嘘が混じっている」と天武天皇が言い、それがきっかけで、元明天皇の命令により、官僚の太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が、口頭で伝承されていた記録を統合して整理し、文書化したものだということだ。

帝紀は、天皇や豪族の系譜を指し、旧辞は、物語的なものを指すらしい。

そして、古事記は、命令どおり、帝紀と旧辞的なもので構成されており、池澤夏樹の解説では、さらに分かりやすく、大きく3つの要素「系譜」、「神話・伝説」、「歌謡」と説明されている。

古事記の「系譜」は、非常に政治的な匂いがするまとめられ方をしている。

天照大御神(アマテラス)を中心する神々の系統の中央に天皇と子孫たちを置き、地方豪族たちの祖先もその系統に組み込み、神々の威信を利用して、中央集権国家としての統一感を得る。
その作業のために登場する神々だけで312名もいるらしい。

そして、「神話・伝説」については、神々(イザナキとイザナミ)がセックスして、島々(四国・九州地方)と数々の神々が生まれる様子が、明け透け(女性器の名称や、ゲロ・ウンコ・オシッコなど)に書かれていて面白い。

また、天岩戸の神隠れ、スサノヲ伝説、八俣のオロチ、稲羽の白兎、ヤマトタケルの冒険など、なじみのある話が幾つも収められていて、古事記の文学的な面白さが感じられる。

*山岸涼子のマンガを読んでいた人であれば、これらの物語や神々・皇族・豪族の名前について、幾つも読んだことがあるという実感を覚えると思う。

最後の「歌謡」については、私にとっては、万葉集以前にも、こんなにも歌が謡われていたのだなという程度の印象しかなかったが、当時は、言葉というのは音読し、読み聞かせるものだったという証左なのかもしれない。

古事記は、上・中・下巻の3部構成になっているが、上巻は、日本が形作られる神々の世界が中心に描かれており、出雲の神々がアマテラス率いる中央の神々に制圧される話が印象深かった。

中巻は、初代神武天皇から十五代応神天皇までの時代を描いているが、やはり、ヤマトタケルの話が印象深い。

下巻は、十六代仁徳天皇から三十三代推古天皇までを描いている。この下巻から神話性に代わって、儒教的なモラル観が描かれており、話が常識的なものになっている印象を覚える。
意外だったのは、聖徳太子や推古天皇のあたりの話が、さらっと触れる程度で終わっているところだった。

総じていうと、玉石混淆という印象が強く残ったが、現代語の感覚に近い形で、物語を蘇えらせた訳者の池澤夏樹の努力は相当なものだと思う。



2014年11月25日火曜日

「日本語の外へ」 「自分と自分以外」/片岡義男

片岡義男の「日本語の外へ」の第2部 日本語の章に書かれている英語と日本語の比較は、私が読んだ本の中では、もっとも、日本語という言語機能に痛烈な批判を投げかけている文章だと思う。

そこで批判されている日本語とは、文学における日本語ではなく、実社会、さらには国際社会において、他者との対立を怖がらず、主体と行動、そして責任を明確にする個人の考えの発信力のことで、これが日本語には決定的に欠けているという痛烈な批判だ。

私は読んでいて、あまりに不安になってしまい、日本語の良さを再確認したくて、丸谷才一の文章読本を改めて読み直したほどだった。

そんな片岡が書いたエッセイ集「自分と自分以外」にも、耳の痛い話が書いてあった。

「私は作家になりたいと思います」という言い方の中にある「と思います」という日本語。

日本語をそのまま英訳してみると分かるのだが、

I think that I would like to become an author. という、あまり見かけない不自然な英文になる。

主語と動詞が二重になっており、煩わしいし、英語世界の人たちからみると、「なりたい」という意思が弱められた文章のように感じる。

おそらく、普通に英訳される際は、「I think」がなくなり、I would like to become an author. だけになるのだろう。

しかし、上記の文章にかぎらず、「と思います」という日本語は、普通の日本人であれば、よく使う言い回しである。

このエッセイでは、日本人がそのような言い回しを使う理由を次のように説明している。
・自分の断定的な主張を相手に直接ぶつけることを避け、自分の主張によって相手が困ることのないように配慮した言い方が、「と思います」である。 
・はっきり主張することを避けて自己責任をあらかじめ軽減しておく工夫であり、この軽減された責任というものが、誰にとっても暗黙の了解という領域を作っている。このような領域がいたるところに配置されていないと、日本人の言語生活は成立しない。
・作家になりたいと言うだけでは、自分の胸のうちが十分に表現されない。「と思います」を文末につけ、初めて、自分の胸のうちが自分のものとして、言いあらわされる気がする。
3つ目の理由は、話す人にとっては、それなりに納得できるものなのかもしれませんが、聞く側からすると、若干独りよがりのような印象を受けるし、分かりづらい。

自分が普段使っている言葉や言い回しを、外国語を通して、日本語の外から比較検討してみると、日本語の特徴、その背景にある日本人の姿が現れてくる。

このエッセイは、それに気づかせてくれました。

2014年11月24日月曜日

It's A Man's Man's Man's World

高倉健が出てくる映画は、ほとんど見なかったけれど、不思議とこのCMだけは覚えている。



喧嘩でやられそうな男を、見捨てられずに、つい助けにゆく。
それだけなのだが、子供ごころに、カッコいい男だなと思った。

リアリティを感じさせながら、この役を他に誰がやれるのだろうと思うと、そうそう思いつかないところに、高倉健の魅力があるのかもしれない。

Dr.Johnが歌うハードボイルドな"It's A Man's Man's Man's World"が、その雰囲気を引き立たせている。

He's lost in the wilderness.
He's lost in bitterness.

まるで、高倉健のための歌のように感じてしまう。