2021年12月30日木曜日

古くて素敵なクラシック・レコードたち/村上春樹



村上春樹氏が、自身が収集した様々なクラシックレコードの解説をしている。クラシック(古典音楽)をそれほど聞いていない私のような人間でも十分楽しめる内容になっている。

第一に、ほとんどが1950年から1980年までの一昔前と言ってもいいレコード群なのだが、様々なレコードジャケットの写真を見ているだけで楽しい。クラシックレコードのジャケットというと、画一的なオーケストラの写真をイメージしがちだが、個性的なイラストや指揮者、オペラ歌手の顔写真が多く掲載されていて味がある。

特に小澤征爾の三十代頃の顔写真のレコードジャケットは如何にも才能に溢れた青年の風貌を湛えていて興味深い。

第二に、村上春樹氏のそれらレコードの入手のしかたがユニークだ。中古レコード屋で1ドル、最も安い価格では50円!で入手したという話を聞くと、そう言った場所に行かない私でも、心が揺れ動く部分がある。もちろん、そんな簡単なことではないと思うが。

第三に、村上春樹氏のレコードの解説が、平明な言葉づかいで分かりやすい。解説の仕方も、同じ曲を異なる指揮者と演奏家のレコードを複数並べ、それぞれの演奏を比較した批評になっている点も分かりやすい。

この本に、作曲家や曲、指揮者や演奏家の経歴の解説も注釈として付いていたらという感想も正直ないではないが、そこまで真面目に作ると、このCDサイズのカジュアルな本のイメージが壊れてしまうかもしれない。

それにしても、小説家の余技(ジャズレコードコレクター)の余技とは思えないほど、クラシック音楽に対する村上春樹氏の造詣は深いように感じる。(その点は小澤征爾も対談本で認めている)

2021年12月19日日曜日

所有者のパスワード/多和田葉子

木肌姫子という女子高校生。彼女は暇さえあれば本を読んでいて、月々の小遣い5000円では足りないぐらいの本(恋愛小説)を読んでいる。

最初のうち、漫画を読んでいたが読む時間のスピードが上がってしまい、たくさん買わなければ一日が持たなくなってしまい、読むのに時間がかかる本を購入するようになった。

その姫子は、ある日、恋愛小説の棚から変わった本を見つけるのだが、その説明が面白い。

観光地で売っている饅頭の包装紙のような装丁の本だった。手にして題名を見ると、漢字四字のうち一字しか知っている字がなかったので、中国語の本かと思ったが、中を見ると日本語だった。書き出しの文章が変わっている。「わたくしは殆ど活動写真を見に行ったことがない。」活動写真とは何のことだろう。先を立ち読みすると、巡査との謎の会話が延々と続く。...題名の漢字は、「ボクトーキタン」と読むのだろうか。なんのことだか分からないけれども、ホンキートンクのようで、なかなか洒落た題名だと姫子は思った。

姫子は「ボクトーキタン」に影響されて、図書館で出会った男子生徒と仲良くなり、駆け落ちまでしようとし、果ては援助交際まで...という物語だ。

姫子をホテルに連れ込んだ中年男が喋るコンピュータ用語の意味がなんとなく卑猥な感じで伝わってくる。それを姫子が「ボクトーキタン」の一節「相手が「おらが国」と言ったら、こちらも「わたくし」の代りに「おら」を使う。」の知識でなんとかやり過ごすのだが、こんな一節が濹東綺譚にあることは全く覚えていなかった。

原文で確認したら、その一節の前に荷風はこんなことを書いていた。

わたくしは現代の人と応接する時には、あたかも外国に行って外国語を操るように、相手と同じ言葉を遣う事にしているからである。

これは、海外経験のある荷風が考えたユーモアのあるコミュニケーション術だなと感じた。おそらく、多和田葉子もその意外な新鮮さを感じたに違いない。

2021年12月18日土曜日

ヒナギクのお茶の場合/多和田葉子

ボルドーの義兄でも見られた、ちょっと変わった女友達との親密な関係。

小説や戯曲を書き、あまり家から出たがらないわたしと、対照的に行動的な髪の毛を緑色と金色に染めたパンク風の舞台監督のハンナ。

お互い正反対な存在というのは、全く拒絶しあうか、惹かれあうものなのかもしれない。

青いジーンズが似合うハンナの姿に刺激を受けて、ジーンズをはいたまま、小説を書いてしまい、腰を痛めてしまったわたしが可愛い。

小説を書く時には、ゆるくて暖かいモンペをはいていなければいけない。いつもお茶を飲みながら、モンペをはいて、スリッパを履いて、いつもじっとすわって書いている。いつも書いている。夏の光が受話器に貼った銀色の龍のシールに反射してまぶしい日でも。いつも。いつも。

そんなわたしをハンナはボートに乗せて漕いでくれるという。同性に甘やかされ、世話してもらうというのは、意外に快楽的なことなのかもしれない。

そんな優しいハンナが舞台監督を務めることになったのに、作者は見に行く暇がないという。というか、そこには無意識の対抗心が働いていたのかもしれない。

人に会いたい。机を離れたい、と思えば思うほど身体が動かなくなる、あの妙な精神状態に陥ってしまっていた。背骨を古い傘の骨のように鳴らして、原稿を書き続けた。

物語は、最後に意外な形で幕が下りるが、ティーバッグのお茶を大量に作り、そのお茶の色で舞台に使う紙を染め続け、ハーブ茶の匂いに誘われ、湿ったお茶の中で深い眠りに落ちてしまったハンナに不思議な羨望を覚えた。アルコールでは決して辿り着かない深い眠り。



2021年12月14日火曜日

雪の練習生/多和田葉子

この作品は、池澤夏樹編集の日本文学全集で一部「祖母の退化論」の章だけ読んでいたが、その後の2つの章「死の接吻」と「北極を想う日」を読み終わると、ホッキョクグマの三世代の物語としてスケールの大きさを感じた。

一人目の私(牝熊)は、サーカスで活躍していたが、自らのサーカスでの生い立ちを自伝として書いたことで、ソ連にいずらくなり、西ドイツ、さらにカナダに亡命する。そこで結婚し、2人の子供を産むが、男の子は死に、女の子にはトスカと名付ける。

トスカは、東ドイツのサーカスでウルズラという女性のサーカス団員と運命的な出会いをする。相思相愛。精神の奥深いところでつながり、お互いの記憶やサーカスでの出し物<死の接吻>の練習を同じ夢を見ながら共有・体験する。その愛は、トスカが動物園に売却され、そこで息子クヌートを産んでも変わらなかった。

クヌートは、トスカには育てられず、マテイアスという男性の飼育員に育てられ、可愛らしい子熊として統合後のベルリンの動物園で人気者になるが、次第に成長し、マテイアスを爪で傷つけてしまったあたりから人気も凋落するが、天性の才気と幽霊のミヒャエルとの出会いで孤独を乗り切っていく。北極を思わせる寒い冬を待ちわびながら。

ホッキョクグマという設定ではあるが、物語が1989年のベルリンの壁崩壊の前後ということもあり様々なテーマが浮かんでくる。移民、移民の子、多様性、同性愛、地球温暖化などなど。

作者がベルリンの動物園で子熊のクヌートを見て、そこから、ここまで奥行きのある物語を想像力だけで作り上げたことに本当に驚いてしまう。


2021年12月5日日曜日

容疑者の夜行列車/多和田葉子

タイトルが、まるで推理小説のようだが、この本では、作者が読者を、舞踏家を生業にした「あなた」という二人称に設定して、さまざまな都市の夜行列車に乗せて旅をさせ、ちょっとしたトラブルや奇妙な体験をさせるという構成になっている。

2001年頃の作品だが、このコロナ禍の中で読むと、よどんだ空気にすうっと入ってきた新鮮な空気感を味わえて楽しかった。

どの章も面白い。

パリ:「家がどんどん遠くなる。それでもいいではないか、どうせ旅芸人なのだから。匙を投げてしまえ。箸も投げてしまえ。投げて、投げて、計画も野心も全部捨てて、無心に目の前を眺めよ」の一言にすっとする。

グラーツ:「あなたも昔は子供だった。リュックサックを担いだ旅の外国人がどこからともなく現れて...そのすべてを背負った彼の身体が不思議な総合体になって、子供の目の前に現れ、何かを暗示していなかったか」という最後の問いかけが心に残る。

サグレブ:コーヒー豆は輸出規制品なんですね。

ベオグラード:海外の旅先で現地の人に親切にされるとうれしい反面、何か裏があるのではないかと疑ってしまうその心理がうまく描かれている。

北京:こういった状況に巻き込まれたら、ここまで冷静になれるだろうかと思う。

イルクーツク:シベリア鉄道の列車の中、特に会話もないが、干し魚の切り身と玉ねぎとパンの一切れ、そしてウォッカをふるまってくれる男の存在が妙に懐かしい。

ハバロフスク:移動する空間と精神がかみ合わず、夜行列車の中で見る奇妙な夢。

ウィーン:「魔は細部に宿るものだ」という一言が奇妙に説得力がある。不可解な出来事に巻き込まれたときに、細部を観察するということは意外と大事なことなのかもしれない。

バーゼル:マイナスオーラを与える人と個人的にここ最近会ったことがない、しかし、眠りというのは、自己防御の最たるものなのかもしれない。

ハンブルグ:平凡な街での時間の潰し方というのは本当に難しい。

アムステルダム:「右の頬を打たれたら左の頬も差し出せ」という諺について、「誰でもかっと腹が立って、相手を殴り返していたりする。しかしそうなる前に、実験的に左の頬も打ってもらえば、どうやって怒りというものが発生することが分かって、自分の身体を他人のもののように冷静に観察することができる」からという説明が面白い。

ボンベイ:大事な爪切りを売り渡して、永遠の乗車券を手に入れる。ここでいう「爪切り」とは、私たちが収まっている日常社会の枠の象徴みたいなものなのかもしれない。

どこでもない町へ:旅についての観念的な言葉が3人の乗客の間で交わされる。この章だけ、二人称の「あなた」ではない。

旅が何かからの逃避行だとすれば、タイトルの「容疑者」という言葉は、作者が設定した旅に放り込まれた読者が味わう不安定な立場や思いを面白がって少し皮肉っぽく表しているようにも思える。