法哲学を専門とする著者が、様々な時局的問題を取り上げつつ、法哲学の視座から筋道を立てて考察するプロセスを分かりやすく説明している。
著者はリベラリズムを「自由主義」とするのは誤訳で、リベラルの基本的価値は自由ではなく、正義だという考えから、「正義主義」とでも言ったほうがよいと述べている。
リベラリズムには、「啓蒙」と「寛容」の二つが歴史的起源としてあり、啓蒙主義は理性を重視し、理性によって蒙を啓くこと。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動。
寛容は、自分と視点を異にする他者からの異議申し立てや攪乱的影響に対し、自分のアイデンティティを危うくする恐れもあるが、前向きに受け入れ、それによって自分が変容し、自分の精神の地平が少し広がっていくことを許容すること。
さらに「正義概念」に共通する規範的実質は、「普遍化不可能な差別の排除」と述べている。
自分の国だから、あるいは、自分の子供だから特権的に扱われるべきだというような、当事者の個体的な同一性に依拠しているような差別は、普遍化できないので排除されなければならないという考え。
この「普遍化不可能な差別の排除」という正義の概念にかなっているかどうかを、見分ける手段があるという。
一つは、自分の他者に対する行動や要求が、もし自分がその他者であったとしてもうけいれられるかどうか、自分の視点だけではなく、他者の視点からも拒絶できないような理由によって正当化できるかどうか、というテスト。「反転可能性」テストと呼ばれるもの。
二つ目は、「ただ乗り(フリーライド)」の禁止。自分のみ便益を得るだけで負担は他者に転嫁する姿勢の否定。
三つめは、二重基準(ダブルスタンダード)の禁止。自分の他者に対する要求を正当化するための基準を、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、別の基準を援用して、自分に有利な結論を導こうとすること。
このようなリベラリズムの観点から、国歌斉唱・国旗掲揚問題、慰安婦問題、ドイツと日本の戦争責任、集団的自衛権の行使、天皇制、靖国問題、日本的会社主義(過労死問題含む)など、様々な時事的な問題について、著者がどう考えるかということが述べられていて、実に刺激的な本だ。
なかでも印象深かったのは、憲法9条の問題で、護憲派が「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」という早稲田大学の長谷部教授などの考えを、無理があると批判しているところだ。
およそ通常の日本語感覚で、現憲法9条を読むと、到底、自衛隊と安保を保持することはできない。これを旧来の内閣法制局見解は、“解釈改憲”していたに過ぎず、護憲派がこの見解を拠り所にすることは、自分自身が解釈改憲をやっているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判できないだろうという考えだ。
<著者の考えに興味がある人はこの本を読んでください。ここに書く文量では誤解を招きかねないので控えます>
もう一つ興味深かったのは、天皇制について、天皇・皇族には職業選択の自由がなく、政治的言動も禁じられ、表現の自由もなく、国民が自分のアイデンティティを確保するために、天皇・皇族を奴隷化しており、反民主的であるから廃止せよという考え。
著者は天皇の業績(ハンセン病患者の施設訪問)に好意を持ちつつも、「老齢の夫婦が体にむち打ってそこに行かなければならない、そうしなければ日本国民の関心がそこにいかない」という現状、日本国民統合のための記号として奴隷的に使役している実態を批判している。
現役の法哲学者が、歯に衣着せぬ発言を正々堂々と行っているところが、とても刺激的で、好感が持てる本である。
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個人的な話だが、実は、私は井上先生の法哲学の講習を受講したことがある。
当時、法律嫌いの私が、唯一大学で真面目に勉強したのが、井上先生の法哲学講座ではないかと、今でも思うことがある。
教科書は、先生の代表作の「共生の作法―会話としての正義」で、ゼミ形式ではなかったが、先生の講座はいつも面白くて刺激的だった。
講義の終わり、居酒屋で先生とお酒を飲んだとき、当時の時事ネタに鋭い突っ込みを入れていた様子を、本書を読んで、まざまざと思い出し、「全然変わってない!」とあらためて懐かしく思った次第である。
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