2016年9月25日日曜日

翔ぶが如く/司馬遼太郎

明治維新は、大改革だった。

十九世紀の帝国主義の真っ只中、欧米の列強に植民地にされるという恐怖心から、その革命は起こり、日本は、封建制度を廃止して、近代国家を目指すことになった。

そして、新政府の要職には、維新を主導した公家と薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥後藩の出身の武士たちが就いた。

彼らの一部は、自分たちを脅かす列強とは何者か、近代国家とはどんな国なのかを知らなかった。だから、そのイメージを掴むため、外遊することになった。そんな所からのスタートだった。

大変な時代だったと思う。工業化された近代国家のイメージは掴んだものの、軍隊や警察制度の創設など、近代国家を作るには、とにかく金がかかる。

米穀中心の経済だっため、輸出産業はないに等しく、お金はない。
農民たちは、コメの代わりに金銭による税の負担を課され、以前より生活が苦しくなり、武士は廃藩置県により、職を失った。

新しい社会に誰もが満足していなかった。
彼らの不満の矛先は新政府に向かった。

新政府において、最も力を有していたのは薩摩藩で、その薩摩を率いていた両巨頭が、西郷隆盛と大久保利通の二人である。

西郷隆盛は、薩摩に留まらず、全国の士族から武士として尊敬される存在であり、大久保利通は、困難に満ちた日本の近代化を推し進める明治政府の実務家の中心的な存在だった。

その二人が、征韓論の対立を機に、袂を別ち、西南戦争で戦うことになってしまう物語だ。

物語は、大きく3つに分けられると思う。

第一部は、“小大久保”とも言うべき大警視の川路利良と、小西郷”とも言うべき陸軍少将 桐野利秋の動きを通して、新政府の重要人物たち、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、江藤新平、大隈重信、岩倉具視、三条実美の姿を描きながら、大久保と西郷が征韓論をめぐり、激しく対立し、西郷が薩摩に帰ってしまうまで。

第二部は、江藤新平が中心となって起こした佐賀の乱を、大久保が迅速かつ徹底的に叩きのめし、西郷を中心とする反政府勢力に圧力をかける。これを受け、薩摩は、西郷を中心とした“私学校”という一種の反政府組織を作る。一方、大久保は、士族の不満のガス抜きのため、台湾出兵を行うが、それがきっかけで清国と事を構えてしまい、大久保自ら解決のため北京に赴き交渉を行う。

第三部は、神風連の乱(熊本)、荻の乱(山口)を鎮圧した新政府が、薩摩に密偵を送ったことで、西郷暗殺の目的との噂が広まり、ついに“私学校”が挙兵を決定し、西南戦争が始まってしまう。
そして、激闘のすえ、西郷は死に、戦争終了後、大久保もテロに倒れる。

はじめて読んだときは、非常に読みづらい作品だと感じた。司馬遼太郎の筆が何度も同じ繰り言を繰り返しているような印象を受けた。

その原因は、司馬の西郷に対する戸惑いが見え隠れしているせいだろう。

勝海舟に、“人物”とまで言われ、幕末から維新にかけては、巧緻と言えるほど政治的決断と行動力に優れていた西郷が、維新後は、まるで抜け殻のようになってしまっていることに、司馬自身、納得がいかないまま、筆を進めたせいだろう。

一方、様々な難題を放棄せず、実務をこなしていく大久保の政治力と責任感は、現代に通じる価値観につながるものがあり、分かりやすい魅力に満ちている。
個人的には、大久保が清国と交渉する上記第二部が好きだ。

それにしても、大久保が、彼が計画していた明治三十年まで生きていたら、日本はどう変わったのだろうと思わずにはいられない。

近代化の流れの中で、西郷の死はほとんど必然だったような気がする。どう転んでも、彼は消えゆく存在だった。
西郷がもっとも大切にしようとしたものは、“武士の精神”であり、彼はそれを最後まで体現していた人物だった。

日本の価値観の代表格として、いまだに“武士道”が挙げられている。それは、もはや実態がない歴史のなかで空想するしかないものだが、日本には、その代わりになるもの、拠り所が未だに見つかっていない。

日本人が、いまだに西郷を好むのは、失った価値観の大きさに対する郷愁のようなものなのかもしれない。

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