これが、すこぶる男女不平等な内容で、夫がいる妻が姦通をした時だけ、 その妻と相手の男が刑罰(重禁固、その後懲役2年に変わった)を受けるという内容だった。
夫が他の婦女と関係しても、姦通罪は適用されなかった。
「武蔵野夫人」でも、道子の夫 秋山が、大野の妻 富子を口説く際、姦通罪の廃止をほのめかす場面が出てくる。
「姦通の記号学」という大岡のエッセイも、夏目漱石の「それから」と「門」などの作品を取り上げ、姦通について語っている。
私は、はじめて大岡のエッセイを読んだが、考えてみれば、 大岡ほど、頭が切れる人がこういう面白いエッセイを書くのは至極当然のことだと今頃、気づいた。
大岡は、この文章のなかで、漱石は好んで姦通文学を書いた小説家であり、明治政府の検閲が厳しい時代に、新聞という大衆的な枠内で、姦通小説を書いた珍しい男と評している。
(今、朝日新聞では「それから」を再掲載しているが、本書では、代助が自分の愛する女である三千代を親友の平岡に譲ったことについて、夫(代助)は妻の姦通者を容認する立場にあり、姦通するために結婚させると解説している)
そして、
「それから」が姦通そのものよりも、代助の生活環境、「自己本位」の実行として、正面から離婚を要求し、結婚によって「姦通」を実現しようとすること、父の政略的結婚強制の拒否によるブルジョアのエゴイズムの摘発など、姦通以外の社会的条件とそれへの対応の描出で成り立っている…
漱石に姦通の感情的高揚、エロスの昂進の描写はなくてもよいのだ、と納得した次第です。と評している。
この漱石のスタイルは、18~19世紀の西洋の姦通小説の要件
1.姦通そのものを描いたものではなく、それを取り巻く状況を描くことによって成立している
2.権威としての父親の役割の重さは次第に減少し、シニカルな姦通肯定論をぶつ人物が登場する
3.現実の事件は離婚で終わるけれど、小説はそれで終わるものではない。
に、当てはまっているということらしい。
しかし、まさに、ぴたりと当てはまっているのは、 大岡の「武蔵野夫人」ではないかと思ったが、姦通そのもの(性の描写)も控えめではあるけれど書かれているので、1.からは若干ずれるかもしれない。
他にも、漱石の「行人」、一葉の「われから」、トルストイの「アンナ・カレーニナ」「クロイツェル・ソナタ」、ゲーテの「親和力」、フローベルの「ボヴァリ―夫人」 、ジョイスの「ユリシーズ」(ブルム夫人の独白)、ドストエフスキーの「白痴」などの作品における「姦通」について、自在に語っていて、とても面白い。
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