2015年8月30日日曜日

8月30日 国会前安保法案抗議集会

戦後70年談話が終わった後から、お盆休み明けを過ぎ、妙に安保法案の国会審議が静かになってしまったような気がする。

現在、安保法案は参議院で審議中だが、9月14日から衆議院で再可決すれば、法案を成立できる、いわゆる「60日ルール」が使えるようになる。
野党の国会議員は、最後まで力を尽くして、廃案にすることを諦めないでほしい。

私たち一般市民も、どうせ、反対しても、と思う人もいるだろうが、それでも声を出して、最後まで諦めずに廃案を主張し続ける人たちも大勢いる。

今日、午後1時から、国会前では、大規模な抗議活動が行われ、参加してきた。


午後1時過ぎ、地下鉄日比谷線 霞が関で降りると、すでに大勢の人たちが国会への道沿いを列を作ってならんでいた。

やはり、年配の人が多いような気がしたが、学生と思われる人たち、子連れの主婦の姿も少なくなかった。外国人の姿もちらほら見えた。

人が多すぎて、ひょっとすると国会前には、たどり着けないかと思ったが、警察官の誘導を無視して、前に進むと、少しずつ、国会議事堂の姿が見えて来た。

沿道では、公明党の支持者(創価学会の人たちか?)も居て、自民党に、いいように使われている党の現状に反対する署名活動をしている姿も見受けられた。

国会議事堂の右側あたりで、SEALDsのひとたちも居て、聞きなれたコールを連呼していた。

「戦争法案絶対反対!」
「9条守れ!」
「戦争反対!」
「安倍政権は直ちに退陣!」

色々な場所から、コールが上がっていたが、こういう混雑した場所だと、かけ声は、やはり凛とした女性の声の方が、皆が声を出しやすい。

ようやくたどり着いた国会議事堂前では、「安倍やめろ」の横断幕が、白黒の風船につるされて、国会議事堂に向かって提示されていた。

あいにくの雨模様だったが、それほど本降りにならなくて幸いだった。
(参加者12万人と主催者側は発表している)

http://mainichi.jp/graph/2015/08/30/20150830k0000e040122000c/003.html

今日は、全国200カ所以上でデモや集会を実施されたらしい。 
http://www.sankei.com/politics/news/150830/plt1508300016-n1.html

これだけの数の国民が反対する法案は、近年ない。
そして、それを真っ向から無視して強行採決を行う政権も。

事前に以下のブログを読んで準備していったのだが、とても参考になったので紹介しておこう。
http://ossanhitorimeshi.net/?p=21460

2015年8月23日日曜日

行人/夏目漱石

行人(こうじん)は、夏目漱石晩年(45歳ごろの作品。彼の死は49歳)の作品で、有名な「こころ」の前作に当たる。

物語は、四部構成になっていて、切り離しても別々の作品として成立しそうな内容になっている。

最初のパート「友達」は、明治時代の高等遊民と思われる二郎が、友達と大阪で行き合い、高野山に登るのを約束し、その待ち合わせ場所として、かつて、二郎の家に書生として住み込んでいた岡田の家に泊まる場面から始まる。

ここでは、なかなか来ない友人 三沢を待つため、数日泊まる中で、いかにも善良そうな岡田と仲睦まじい妻のお兼さんの関係が描かれている。

そして、このパートの後半では、実は胃潰瘍で入院していた友人 三沢を見舞う二郎が、同じく入院している美しい若い女を見つけ、三沢と何らかの関係があるということが次第に分かるという筋書きになっている。

2つ目のパート「兄」は、大阪にいる二郎のところに、兄の一郎と、その妻の直、母が訪れ、一緒に観光することになる。この中で、一郎と直の関係が不和であることが明らかになるが、学者で神経を病んでいると思われる一郎は、妻が自分を愛しておらず、実は二郎を愛しているのではないかという疑いを持つ。
そして、一郎は、妻の節操を試すために、二郎に直と一緒に旅に出て一泊してくれと頼むことになる。
二郎は、ためらいつつも、直と一緒に旅に出て、天候の急変もあり、本当に一泊してしまうことになる。

帰ってから、 一郎は、二郎に結果を問いただすが、二郎は直の心根にやましいところはないことを告げる。

3つ目のパートの「帰ってから」は、家族が東京に帰ってからの様子を描いたもので、物語に、父と二郎の妹の重子、そして、下女の貞が出てくる。ここでの印象深い出来事は、父が話した父の友人であった書生と関係した下女がその後盲目になってから再会した際の話と、妻への疑いが晴れない兄 一郎に疎まれた二郎が家を出て、下宿することになったことだろうか。

4つ目のパート「塵労」は、さらに神経を病んでいく兄 一郎に焦点が当てられている。妻だけではなく、家族からも離れていく一郎を心配し、二郎は知人のHさんに、気分転換に兄を旅行に連れ出してほしいと頼む。一郎は、H氏に自分の悩みと思想を語り、H氏がそれを手紙で二郎に報告するという内容になっている。

弟と兄嫁の危うい関係を描いているが、どことなく、ユーモアを交えて、エロチックな要素を減殺しているのは、やはり新聞連載小説という意識が漱石に働いたせいだろうか。
どこか優柔不断な二郎は、「三四郎」に若干似ているような気がする。

物語はゆるゆると進みながらも冗長な部分がなく、文章はとても読みやすい。
まだ、時代的な制約がありながらも、直という飄々とした兄嫁の描き方もうまいし、蚊帳の話や次男より長男の威厳を気遣う母親の存在など、昔の日本の家庭の面影を感じられるところも興味深かった。

しかし、 最後の「塵労」は、漱石自身の神経衰弱と体調不良が如実に作品に現れていて、どこか暗い影が漂っている。

2015年8月18日火曜日

姦通の記号学/大岡昇平

大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んで、「姦通罪」という刑罰が気になって調べてみたところ、明治時代(1880年)から戦後(1947年)の日本国憲法成立の時まで、旧刑法では、「姦通罪」という刑罰が定められていた。

これが、すこぶる男女不平等な内容で、夫がいる妻が姦通をした時だけ、 その妻と相手の男が刑罰(重禁固、その後懲役2年に変わった)を受けるという内容だった。

夫が他の婦女と関係しても、姦通罪は適用されなかった。

 「武蔵野夫人」でも、道子の夫 秋山が、大野の妻 富子を口説く際、姦通罪の廃止をほのめかす場面が出てくる。

 「姦通の記号学」という大岡のエッセイも、夏目漱石の「それから」と「門」などの作品を取り上げ、姦通について語っている。

私は、はじめて大岡のエッセイを読んだが、考えてみれば、 大岡ほど、頭が切れる人がこういう面白いエッセイを書くのは至極当然のことだと今頃、気づいた。

大岡は、この文章のなかで、漱石は好んで姦通文学を書いた小説家であり、明治政府の検閲が厳しい時代に、新聞という大衆的な枠内で、姦通小説を書いた珍しい男と評している。

(今、朝日新聞では「それから」を再掲載しているが、本書では、代助が自分の愛する女である三千代を親友の平岡に譲ったことについて、夫(代助)は妻の姦通者を容認する立場にあり、姦通するために結婚させると解説している)

そして、
「それから」が姦通そのものよりも、代助の生活環境、「自己本位」の実行として、正面から離婚を要求し、結婚によって「姦通」を実現しようとすること、父の政略的結婚強制の拒否によるブルジョアのエゴイズムの摘発など、姦通以外の社会的条件とそれへの対応の描出で成り立っている…
漱石に姦通の感情的高揚、エロスの昂進の描写はなくてもよいのだ、と納得した次第です。
 と評している。

この漱石のスタイルは、18~19世紀の西洋の姦通小説の要件

1.姦通そのものを描いたものではなく、それを取り巻く状況を描くことによって成立している
2.権威としての父親の役割の重さは次第に減少し、シニカルな姦通肯定論をぶつ人物が登場する
3.現実の事件は離婚で終わるけれど、小説はそれで終わるものではない。

に、当てはまっているということらしい。

しかし、まさに、ぴたりと当てはまっているのは、 大岡の「武蔵野夫人」ではないかと思ったが、姦通そのもの(性の描写)も控えめではあるけれど書かれているので、1.からは若干ずれるかもしれない。

他にも、漱石の「行人」、一葉の「われから」、トルストイの「アンナ・カレーニナ」「クロイツェル・ソナタ」、ゲーテの「親和力」、フローベルの「ボヴァリ―夫人」 、ジョイスの「ユリシーズ」(ブルム夫人の独白)、ドストエフスキーの「白痴」などの作品における「姦通」について、自在に語っていて、とても面白い。

2015年8月17日月曜日

武蔵野夫人/大岡昇平

大岡昇平の小説は、俘虜記、野火、レイテ戦記を読めば分かるとおり、戦争がその主要なテーマになったものが多いが、この武蔵野夫人は、姦通(今で言う「不倫」だと思うが、「姦通」の方が罪が重そうな響きがある)をテーマにした恋愛小説である。

ただ、戦争の影はやはりあって、人妻 道子の従弟の勉が、ビルマの復員兵士として登場する。
物語は、武蔵野(国分寺と武蔵小金井近く)の「はけ」(湧き水の溜まるところ)と呼ばれる土地に住む、道子とその夫でフランス文学者の秋山、そして、道子と親類関係にあり、闇物資を扱うビジネスをしている大野と、その浮気性の妻 道子が主な登場人物である。

古風で堅い性的不感症な道子と、一見純粋な勉が精神的に愛し合うが、それを、夫である秋山が自分は富子に言い寄る一方で勉が道子に接近するのを邪魔し、富子も勉に関心を持ち、性的な誘いをかける一方、自分に関心を持つ秋山をけしかけ、道子と勉の距離を遠ざけようと邪魔をするという物語だ。

ドロドロした男女関係、そして、純粋な二人の恋愛が悲劇になってしまう物語を、大岡の乾いた筆は、感情過多になることなく、客観的に描き出している。

それは、一見、脇役のような秋山や大野が実は物語の重要な鍵を握っていたという描き方をしていることからも明らかだ。




2015年8月16日日曜日

安倍首相の戦後70年談話全文を読んで

安倍首相が、閣議決定を経て、戦後70年談話を発表した。

戦後50年の村山談話、60年の小泉談話が1200字程度だったのに対して、3000字以上(A4用紙5枚)に及んだというのは、いかに、安倍政権が、この談話を注視する関係者への配慮を盛り込むか、苦心した表れともいえる。

その結果、一読すると、いわゆる安倍首相的な考えと、それに相反するような考えが所々に見られる不思議な談話になったというのが、私の印象だ。

まず、安倍首相的なものを取り上げてみる。

1. 日露戦争の肯定
 この談話のはじまりで、日露戦争を肯定するような表現で取り上げている。
司馬遼太郎が日露戦争を「祖国防衛戦争」だったと評していることを私自身も否定するものではないが、安倍首相が語っているこの文脈では、日露戦争のような戦争であれば肯定されるのだ、という思いが伝わってくる。

しかし、この日露戦争の勝利が、日本人をして、日本国が絶対負けない神の国であり、世界において一等国という妄想を軍部および多くの国民に植え付け、戦後得た満州の権益を守るため、国全体が植民地支配と侵略戦争に乗り出し、太平洋戦争に突き進んだことを考えれば、その罪深さが分かるだろう。

2.太平洋戦争の原因は、世界恐慌と欧米諸国の経済ブロック化
私は、日本の軍国化に経済の困窮が影響したことを否定するつもりはないが、この2つの要素だけ取り上げることについては違和感がある。
太平洋戦争の原因は、何といっても、 日本の軍部が、日露戦争の勝利によって得た満州の権益を守ること、ソ連の侵攻を防ぐことを重視し、憲法の不備を突いて、暴走していったこと、そして、それを盛んに焚き付けたマスコミの影響が大きいと思う。

この「経済のブロック化」は、談話の最後の方でも述べられていて、「国際経済システムを発展」(おそらくTPPだろう)にかかってくる。中国への牽制という意味合いもあると思う。

3.アジア諸国への侵略、植民地化について、誰がどこで何をしたかは説明を省略
日露戦争時まで遡っておきながら、日本が西洋列強の真似をして、植民地支配と侵略戦争に乗り出したところは、実にさらっと流している。「事変、侵略、戦争」という単語だけを並べて済ましているところも、違和感がある。文脈から読むと、日本のことを指しているのは分かるのだが、単に一般論として、これらの行為は許されないとも解釈できてしまう。

なぜ、こんな曖昧な文章に終始したのか。それは、つまり、はっきりと言いたくなかったのではないか、とも推測できてしまう。

 4.「痛切な反省と心からのお詫び」から、「歴代内閣の立場は揺るぎない」までの距離
 「痛切な反省と心からのお詫び」が過去形の中で表明されたこともそうだが、「こうした歴代内閣の立場」の「こうした」には、「反省とお詫び」というより、「戦後一貫して(日本が)、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました」という文章を指しているような気がする。
安倍政権が今後考える「平和と繁栄のために力を尽くす」ことには、もちろん、今、国会で審議している安保法制も入るのだろう。
談話の最後の方の「積極的平和主義」が、その意図をさらに強調している。

いずれにしても、安倍首相としては、「もう、謝罪は止める」という意図が透けて見える。

5.中国と韓国は、寛容の心を持て。未来永劫、謝罪を続けるのは御免だ
談話では、日本が国際社会に復帰できたのは、戦争被害者に寛容の心があったからだと訴え、ついで、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と断言している。
この言葉は加害者から言うべきものではないだろう。加害者から、もう私は謝罪しないという一方的な宣言は、被害者に対しては全く通用しない身勝手な言い草に過ぎないと思う。

たとえ、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」であっても、被害者が許さない限り、謝罪せざるを得ないというのが、歴史上の責任(無限責任)ということなのだと思う。

以上、安倍首相の考えが現れている部分を取り上げてみたが、従来の談話には見られない点(慰安婦を思わせる表現、女性の人権)に触れているところは、評価できると思う。

しかし、談話の文中にある以下のような考えを本当に持っている首相であれば、憲法も改正せずに、今の安保法案を強行採決することなど考えられないと思うのは、私だけだろうか。
「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」

「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりまし た。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。」

「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し」

2015年8月6日木曜日

NHKスペシャル きのこ雲の下で 何が起きていたのか

かなり目をそむけたくなるような内容だったが、これが現実だったのだと思いながら、番組を見た。

番組では、原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影された白黒写真にフォーカスして、そこに写っていた生存者の証言等から、動きと声と色を付け、当時の悲惨な状況を再現していた。

犠牲者を病院に連れていく軍のトラックでも、怪我人の選別が行われていたという証言も生々しかった。トラックに助けを求めた少女に対して、女・子供は乗るなと軍人は言い放ったという(戦力になる若い男性を優先して救助したらしい)。

この番組で初めて知ったが、原爆の犠牲者の大半が、十二、三歳の子供たちだったらしい。
彼らは、大人たちが国家により戦争に駆り出されている間、勤労動員で市内のあちこちで働かされていたのだ。

戦争という悲惨は、直接の責任がない子供たち、女性、一般市民に容赦なく降りかかってくるという現実は忘れてならないことだと思う。

そんな広島への原爆投下の日から70年目の日本の現状を考えると、気持ちが暗くなる。

本来ならば、思いをあらたに平和を希求すべき時なのに、日本は戦争が出来るようにするための法制化を進めているのだ。

平和式典に出席した安倍首相の挨拶では、戦後日本が堅持してきた「非核三原則」(核兵器をもたず、つくらず、もちこませず)には触れなかったという。

昨日の国会審議で、問題の安保法案が、核兵器の運搬も排除されないという認識を中谷防衛大臣が述べた後、慌てて、「非核三原則があるので、想定していないしありえない」と強調していたが、今日の安倍首相の態度を見ると、法案で核兵器の運搬が出来る以上、政府の態度も変わる可能性があるということだろう。

2015年8月4日火曜日

何かに呼ばれるように、自民党議員からの暴言が止まらない

今度は、武藤貴也さんという人が、安保法案に反対する大学生の団体SEALDsに対して、
彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。
と、Twitterでコメントしたらしい。

率直に言って、SEALDsの主張を全く理解していないと思う。

彼らのスピーチをまともに聞けば、第一に反対しているのが、安倍政権が今、国民の反対を押し切って進めようとしている集団的自衛権の行使容認であり、立憲主義と法的安定性を軽んじる憲法解釈の変更だということは、すぐに理解できる。

その主張が、なぜ、「だって戦争に行きたくないじゃん」(なぜ、語尾が「じゃん」なのだろう)という乱暴なまとめ方になったのかが理解できない。

SEALDsの学生たちが恐れているのは、戦前の日本で跋扈した軍国主義の復活であり、ふたたび戦争へと突き進んでしまう歴史上の過ちを何とか止めたいという必死の思いから主張しているということも容易に理解できる。

ただ、以下のブログの内容が正しければ、この武藤貴也さんは、相当、根深いところで、今の日本国憲法が提供する価値観を否定したい考えの持ち主であることがわかる。

http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-11937106202.html

ご丁寧に、日本国憲法の三大原理(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)を一個ずつ否定している。

この記事を読むと、武藤貴也さんは、戦前の日本の価値観に戻ることが正しいという考えを持っているとしか理解できないが、そうだとすると、上記のSEALDsに対するコメントも納得がゆく。

私は、世の中には、こういう人もいるのだろうなと思っていたが、しかし、こんな特殊な考え方を持った人が国会議員になるのは、いかがなものかと思う(国会議員には憲法尊重擁護義務がある)。

自民党が、どの程度、この人物を調べて「公認」したのかは知らないが、 今の自民党および安倍政権の顔ぶれを見ると、武藤貴也さんと、相当共鳴するものがあったのかもしれない。

私は、この発言をニュースで知って、内田樹さんが先日、ブログに書いていた以下の文章が頭を過った。
世界平和を求めるとか、平和憲法を維持するとか、「きれいごと」を言うのはもうやめよう―。そんな不穏な心情が法案成立を目指す安倍政権を支えている。
表に出すことを禁じられたこの「邪悪な傾向」が七十年間の抑圧の果てに、ついに蓋を吹き飛ばして噴出してきたというのが安倍政権の歴史的意味である。
彼らに向かって「あなたがたは間違ったことをしている」と言い立てても意味がないのは、彼らが「間違ったこと、悪いこと」をしたくてそうしているからである。
http://blog.tatsuru.com/2015/07/17_1352.php

礒崎総理補佐官の謝罪に思う

礒崎首相補佐官が、安保法案に関し、

「法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要かどうかを気にしないといけない」とか、

「法的安定性で国を守れますか? そんなもので守れるわけないんですよ」と発言したことに関して、

参議院の参考人招致の場で謝罪し、発言を取り消したらしい。

ちなみに、法的安定性とは、法律の内容や解釈を安易に変えてはならない、という原則のことだ。

しかし、礒崎さん本人からすれば、何故、俺が謝らなければならないのだろうという思いが、心中去来したに違いない。

礒崎さんが言っていることは、まさに、この安保法案で、安倍政権がやっていることを正確に説明したに過ぎないからだ。

彼の言葉を言い換えれば、
 「歴代内閣が積み上げてきた憲法9条の解釈を今までどおりに守って、国を守れますか?そんなもので守れるわけないんですよ」ということであり、

これは、今まで国会で、野党が憲法9条の法的安定性を守るべきだと追及してきたことに対して、安倍首相が繰り返し答弁してきたことの総論に過ぎない。

そんな安倍首相の言葉を言いかえただけの礒崎さんに、野党はともかく、安倍首相が注意をしたり、謝罪を強いるのは、どうかしている。

It doesn't make sense.(筋が通らない)とは、このことだ。

さすがに、辞任までは求めることができなかったようだが、自分に忠実な部下に泥をかぶらせて、白を切る上司は、人間としても尊敬されないと思う。

2015年8月2日日曜日

最近の報道機関に思うこと

マスコミは、権力が暴走しようとしたときこそ、権力と距離をとって、公平な報道を行うべきだと思う。
つまり、そういう時にこそ、真価が問われるのだ。

今回の安保法案をめぐる各社の報道の対応がくっきりと分かれたせいで、私のニュースソースもすっかり変わってしまった。

以前は、テレビのニュースはNHKのニュース 特に、ニュースウオッチ9を見ていたのだが、最近は、すっかり見なくなってしまった。

政権に批判的な情報は流さないし、キャスターはニュース後もノーコメント。
見ていると、拍子抜けしてしまうのだ。

ひどい内容の国会審議が流れたあと、何かひとこと言いたくなるのがふつうじゃないですか?

以前は、控えめながらも、大越さんのはっきりとした個性が感じられるコメントがあった。
残念ながら、今のキャスターは、つるっとした、のっぺらぼうみたいに無個性だ。

もちろん、今の籾井会長のせいであることは、想像がつく。

安倍政権の行った人事は、政権の考えに賛同したり、いいなりになる人間を選択していることが、いずれも顕著に表れている。

NHK会長しかり。百田のNHK経営委員しかり。日銀総裁しかり。法制局長官しかり。


現場としては、反抗しづらいのだろうが、最近は、原発に関するNHKスペシャルも報道されなくなったりして(川内原発の再稼働前の時期だからだろうか)、視聴者としては本当にがっかりしている。

NHKの報道とは対照的なのが、テレビ朝日の報道ステーションと、TBSのNEWS23、報道特集、サンデーモーニングだろう。

(一つの目安として、国会前の安保法制反対の抗議集会の様子を定期的に報道している報道機関は、権力と距離をとっていると思う)

報ステは、癖があるけど、古館さん、NEWS23・サンモニは、岸井さん(写真下)が頑張っている。
(サンモニは、この件があるまで、若干重たい感じがしてあまり見ていなかったのだが、こういう硬派な話題になると、寺島実郎さん等、他のコメンテーターも、安心して話を聞くことが出来る人が多い)


報道特集は、最近で言うと、中曽根元首相が、戦時中、インドネシアで慰安婦所開設を推進した人間であることをスクープするなど、硬派な報道番組だと思う。
(しかし、こういう事実があるのに、慰安婦問題で、安倍政権が執拗に謝罪を拒否する資格が本当にあるのだろうか?)

フジテレビは、BSフジ プライムニュースだけは見る価値があると思う。
(反町理キャスターの、したり顔風の「ナルホド!」を見ていると、不思議にクセになる)

日テレは、手厚いのは、芸能と皇室のニュースぐらいだろうか(ある意味、NHKなみに統制されていて、スカスカの情報しか報道していない)

テレ東は、最近で言うと、「池上彰の戦争を考えるSP」の番組がよかった。

ナチスが最も民主的な憲法といわれていたワイマール憲法の下で新しい法律をつくり、憲法の効力をなくしてしまう憲法の解釈を変えたと説明しているあたりなどは、とても参考になった。

池上さんは、数日前のテレ朝の番組でも、本来、政権のチェック役である内閣法制局長官を、内閣総理大臣の権限で変更できてしまう制度的問題を問うていた。

私は、これらの番組を見たせいで、すっかり、 池上彰さんにリスペクトを置くようになってしまった。


新聞でいうと、全国紙では、毎日新聞が頑張っていると思う。

読売新聞は、早朝から読んでいてムカムカする記事が多いのだが(特に社説)、その記事に騙されてたまるか、という思いがムクムクと知性を刺激するので、ある意味、ボケ防止にはいいのでは、と最近は思うようになりました。