たとえば、モールスキンの手帳について
モールスキンの手帳ノートブックは百九十二ページだ。ひと月で一冊を使いきるとして、一日分として平均して六ページのスペースを割り当てることができる。そしてひと月の半分ほどは、一日分を七ページにすることが可能だ。単純に日割りにするとそうなる。日ごとに変化はあっていい。ただし、ひと月に一冊というペースは、守りたいと思う。一冊を二年も三年も使うようでは、この手帳の良さを生かしきることができないはずだから。一年で十二冊。十二冊の黒い表紙のモールスキンのページに、自分の筆跡でびっしりと書き込まれたさまざまな事柄が、自分にとっての一年なのだ。その十二冊のなかに、その年の自分がいる。少なくともその痕跡くらいは、どのページにも雄弁に残っている。手帳について、ここまで熱く思いを語る人もいるのだな、と若干ほほえましい気分になる。
手帳をほとんど書かない自分からみると、“手帳の中に自分がいる”と感じるまで、書き込む人は、私から見れば、異次元に住んでいる人のようだ。
たまに、びっしりと書き込んだ手帳を持っている人を見ることがあるが、同じような心持ちなのだろうか。
この文章を読んで、一日に使うページ数の説明なんて、どうでもいいと思う人もいるかもしれない。
しかし、この本は、さまざまな文房具について、
手帳、鉛筆、鉛筆クリップ、電子辞書、封筒、パステル、ボールペン、ステイプラー、サインペン、消しゴム、香料としてのチューインガム、ポスト・イット、糊、鋏、ノートブック、スケジュール帳、インデックス・カード、リーガル・パッド、ロディアのパッド、クレール・フォンテーヌのノートブック、ライティング・パッド、置き時計、輪ゴム、クリップ、修正テープ、シール、電卓、AIR MAILのレイベル、切手、モイスナー、宛先レイベル、押しピン、テープ・ライター、ワン・ホール・パンチ、定規、クレヨン・ボックス、写真機、白墨、黒板消し、コンパス
について、片岡義男が、その形状を写真に撮り、その作り、色、寸法、特徴について、執拗に語り続ける。
ひとつの文房具の紹介が終わると、切れ目なく、次から次へと、新たな文房具が現れる。
片岡義男が机に座っていて、彼の目の前の机にある文房具を次から次へと取り出し、説明しているかのように、ひとつづきに説明が流れる。
その律儀ともいえる細かな描写に、若干疲れる読者もいるのではないかと思う。
たとえば、村上春樹が、安西水丸の絵とともに、シェービング・クリームの缶について書いた軽いタッチのエッセイとは、まるで違う空気が流れている。
一言でいうと、男くさいのだ。例えば、女性はメモ帳について、以下のような文章は、まず書かないだろう。
…横罫は淡いブルーで二十二本。間隔はここでもまだ七ミリだ。そして左の端から二十五ミリの位置に、淡い赤で縦罫が二本、二ミリ間隔で垂直に引いてある。この罫のありかたがジュニア・リーガル・ルール(罫)と呼ばれている。しかし、この文章は、その後、以下のように続いていて、ひとつの文明批評になっているところも面白い。
リーガル・パッドのリーガルとは、罫線のありかたよりもはるかに、物事のとらえかた、ものの考えかた、論理の展開のさせかたなどを、意味する。自分の論理を強めたり補完したりする可能性のあるものは、ひとつ残らず書き出して列挙し、それらを作戦的にいろんな方向から観察し、取捨選択しつつ修正をほどこし、論理の筋道を作り、それに沿って論理を組み上げていく。そしてその論理によって、いかなるかたちにせよ、自分を勝利に導いていく。リーガル・マインドの基本はこれであり、これはアメリカ社会のあらゆる細部にまで、徹底して浸透している。
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