2014年10月26日日曜日

洋食屋から歩いて5分/片岡義男

エッセイとは、「形式にとらわれず,個人的観点から物事を論じた散文」のことを言うらしいが、やはり、作者個人の趣味嗜好が強く感じられる文章だと思う。

雑誌に掲載されている一文を読むだけであれば、大抵の文章は読み切ることはできると思うが、単行本としてまとめられたもの全てを読み切るには、興味を引く内容が相当な程度、収められていなければならない。

私の場合、かなり飽きっぽいので、つまらない内容が2つ、3つ続くと、すぐに読むのをやめてしまうのだが、片岡義男のこの本は読み切ることができた。

いかにも片岡義男らしい作品(コーヒーやハワイ、風船ガムの話)もあるが、こんな人なのかという意外なテーマ(料理本、居酒屋、弁当、俳句などの日本的な内容)もあった。

もっとも心に残ったのは、チャンドラーの翻訳でも知られる田中小実昌(たなか こみまさ)に、新宿の地下道で、「なんだ、テディじゃないか」と声をかけられ(片岡は「テディ片岡」というペンネームを過去に使っていた)、紀伊国屋に行き、船橋のストリップ・ショーを見に行き、ふたたび新宿に戻り、全盛期の頃と思われるゴールデン街を徹夜で飲み歩く「コーヒーに向けてまっ逆さま」だった。
よけいな表現が削ぎおとされていて、読んでいて不潔な印象を受けないところは、海老沢泰久の文章と似ている。

最後の「真夜中にセロリの茎が」も、不思議な味わいがある。

「真夜中のセロリの茎」という同じ題名で4回、短編小説を書くことになった話で、片岡がその小説のあらすじも含めて、なぜ書き直すことになったか、その理由を説明するのだが、片岡が間違いだと感じた部分が少なくとも私にはピンと来ない(書き直した内容のほうがちょっと現実離れした展開になる)。

また、片岡が4回目に書き直そうと思い立った直接の原因となる3回目に書き直した小説は、片岡が思い込んでいた物語とは全く違った内容だったことを読者に指摘されたというエピソードも、何とも不思議な話である。

まるで、丸谷才一の短編小説「樹影譚」の主人公である作家が、樹の影をテーマにした短編小説をナボコフが書いていたと思い込んでいた話のようだ。

2014年10月18日土曜日

クリティカルチェーン/エリヤフ・ゴールドラット

半世紀ぶりとなる日本国産のジェット機が完成した、という今日のニュースを見て、それはすごいと思いつつも、計画からすでに4年遅れている、という点も気になった。

ちょうど、この本(副題:なぜ、プロジェクトは、予定どおりに進まないのか?)を読み終わったところだったので、よけい、そう感じたのかもしれない。

この本では、MBAのビジネススクールで行われるプロジェクト・マネジメントの教室が主な舞台なのだが、その講師が定義する「プロジェクト」の定義が分かりやすい。
目標を達成するために、どの作業をどういう順で行わなければならないのか、あるいはどの作業をいつ始めていつ終わらせたらいいのかタイムチャートを作ったことはありませんか。もしそのようなチャートを使って仕事をした経験があるのなら、プロジェクトを経験したことがあるということです。
その「プロジェクト」が、何故、ほとんど、期限までに終わらないのか。
この本は、その原因について、以下の問題点を指摘している。

・ステップ毎の余裕時間の積み増し

 計画を立てるときに、プロジェクト全体をスケジュールどおりに終わらせるには、各ステップがそれぞれ定められた期日までに作業を終えるしかないと当然のことのように考えてしまう。そして、ステップ毎に、「まず大丈夫」という余裕時間を積み増して見積ってしまう。

・学生症候群

 期限までに時間的な余裕があるとつい他の事に手が出て、結局ぎりぎりまで作業に着手しない傾向をいう。ぎりぎりまで着手しないから結局、予定の期限には間に合わなくなる。

・掛け持ち作業の弊害

 複数のプロジェクトを担当し、優先順位が不明確だといずれのプロジェクトにも「均等に」時間を割かなければならなくなるため、ひとつに集中し終了させるのに比べ、段取りのロスや待ち時間のために所要時間が大幅に延びる。

・依存関係

 作業同士が依存している場合、ひとつの先行作業が遅れるとそれが後続の作業に波及してしまう。

そして、これらの問題点を解消するためには、

・期限は設けず、作業期間のみを提示し、作業が回ってきたらすぐに着手し、終わればすぐに申告する。

・個人の時間見積もりは余裕を持たず、「厳しそうだが、やればできる」時間にする。削った余裕はプロジェクト全体の余裕として集中する。

・複数のプロジェクトが集中しているリソース(特定の作業を行う人と考えると分かりやすい)に対しては、事前のスケジューリングの段階で、仕事の優先順位を明確にし、リソースの競合(掛け持ち作業)に陥らないようなスケジュールを作成する。

などの革新的な手法を提案している。

物語の中で、下請業者に、期限を約束させず、利益を上乗せすることで短縮した作業期間を約束させるという、本当?と疑いたくなってしまう交渉の場面が出てくるが、それなりの合理性が感じられるので、一度は実際に試してみたい、と思わせるものがある。

ビジネスに携わる人であれば、誰しも興味を持ちそうな課題を取り上げ、物語の中で革新的な問題解決の手法を説明するエリヤフ・ゴールドラットの小説。

私にとっては、まさかの4冊目の読了となった。

2014年10月13日月曜日

なにを買ったの?文房具。/片岡義男

前作の 文房具を買いにと同じコンセプトの本なので、特に読むまでもないかなと思ったが、出だしの「一本の鉛筆からすべては始まる」の文章にさそわれて、つい読んでしまった。
こんな文章だ。
いま僕は一本の鉛筆を手にしている。ひとり静かに、落ち着いた気持ちで、指先に一本の鉛筆を。
…孤独な僕は、I think better with a pencil in may hand.というワンセンテンスを思い出す。鉛筆を手にしていると自分はより良く考えることができる、という意味だ。ずっと以前にどこかで読み、それ以来いまも忘れずにいる。
本書でも、前作同様、さまざまな文房具を紹介してゆくが、片岡自身の思い入れは、やはり、作家としての仕事道具である鉛筆、鉛筆削り、消しゴム、手帳、ノートブックに比重が高くなっていると思う。

それらに関する文章も印象的なものが多い。
学校の勉強を始めるために、まず鉛筆を削った。削り終えたら勉強を始めなくてはいけないから、何本もの鉛筆をゆっくり丁寧に削った。…削っていくあいだの子供の気持ちは、大げさに言うなら、覚悟の醸成だったのではなかったか。学校の勉強は嫌だが、嫌だ、というその気持ちや態度の克復が、じつは勉強だった。
また、
内ポケットから手帳を取り出し、この鉛筆を背中から抜き、指先で手帳のページを繰り、芯を舌の先でなめ、なにごとかを書き込んでいく大人を、僕が子どもの頃にはしばしば見かけた。平凡ではあるがそれなりに誠実な大人なのではないかと、子供心にも多少の感銘を受けたりもしたが、すでに長いことこのような大人を見ていない。平凡でなおかつ誠実な大人が、日本から消えたからか。
あるいは、
消しゴムは、じつは、まったく新たな可能性、というものの権化なのだ。…正しくないものを、いまだ不充分なものなどを、消し去ることによって、そこにより正しい試みを、消しゴムは用意する。消しゴムによって消されたあとには、広大な可能性の地平が出現しているのだが、多くの人はその事実に気づかない。
本書には、多くの文房具の写真が使われているが、黒いケント紙のうえで、太陽の光を気持ちよく浴びて、上品に佇んでいる色彩ゆたかな文房具のすがたを見るのは心地よい。

一眼レフカメラにマクロ・レンズを付けて撮影した片岡自身、その快楽に勝てず、つい、もう一冊書いてしまったという本だろう。 008.jpg

2014年10月12日日曜日

英語で日本語を考える/片岡義男

片岡義男が、日本語の“ひと言”を、英語に翻訳するプロセス――言葉の変換術――をまとめた本だ。

あらためて思ったのは、翻訳とは、単に日本語の単語を英単語に置き換える作業ではなく、日本語の文章を一旦、要素レベルに分解し、重要なものを抽出し、それに近い英語らしい表現に作り変えていくということだ。

たとえば、以下のような例文がある。
「こういう話になってくると、誰が悪い誰がいけないなんて言ってみても、始まらないんですよ。みんなどこかでつながっているわけですから」について、 
「こういう話」と「になってくる」のふたつの部分は、いっきに細かく砕いて意味だけにすると、「この状況では」という意味でしかない。
ここまで砕くと、そこから英語へは、“In a situation like this”とほぼ直訳できる。
「始まらないんですよ」も、意味だけを抽出すると、そのことに意味はない、というような内容であることが、すぐに分かる。
意味はない、という言い方が持つ範囲の広さを、意味の核に向けてさらに絞り込んでいくと、なんら有効な視点にはなり得ない、というようなことだと判明する。“pointless”という便利な言葉がある。これを使えばいい。
「誰が悪い誰がいけないなんて言ってみても」という日常的な語法は、「責められるべきは誰なのか判明させようとしても」という程度まで砕く…そしてこの内容をとにかく最短距離で言おうとすると、次のようになる。
“try to figure out who's to blame”
「みんなどこかでつながっているわけですから」という言いかたは、…「ぜんたいはひとつの環である」とまで砕くと、それをそのまま、“it's a circle”と言えば、英語らしい英語になる。
課題の日本語の文例ぜんたいは、次のような英語にまとまる。
“In a situation like this, it's pointless to figure out who's to blame. It's a circle.”
この作業プロセスをみると、日本語の要素となる骨の部分だけ抜き取り、それを英作文する作業に近いような印象を受ける。

そして、片岡義男が、この本の冒頭で述べているとおり、このような英語能力の習得の基本となるべき最重要なものは、日本語の能力なのだと思う。
たぶん、その能力がないと、日本語からの意味の抽出、別のことばへの置き換えが出来ないだろう。

2014年10月11日土曜日

日本語と英語 その違いを楽しむ/片岡義男

本書でもっとも面白いと感じたのは、片岡義男が十五歳のときに「源氏物語」を読んで衝撃を受けたというエピソードだ。

彼は、「源氏物語」の出だしのフレーズ「いずれのおんときにか」というわずか10文字がまったく理解できない事実に愕然とし、後年、「源氏物語」の英訳を読み、該当する文章「In the reign certain emperor」(ある天皇の統治下で)の、あまりのわかりやすさに、強い衝撃を受けた。

本書は、この片岡義男の原体験「源氏物語の影」に基づき書き留められた日本語と英語の比較言語学的エッセイだ。

片岡義男が愛用しているインデックス・カードに書き留められつづけた日本語と英語の数々のフレーズ。
ほとんどが日常的に使われている常套句といっていいものだが、そのありふれたフレーズから、日本語と英語の違いを浮き上がらせる。

たとえば、

「住所氏名をご記入の上この葉書をご返送いただければ当社の新刊や特典、催物などの情報をお届けいたします。」と、

“We invite you to return this card with your name and address so that we can keep your informed of our new publications, special offers and events.”。

この2つの文章に関して、片岡義男は、こんな風に分析する。

(日本語の文章は、)「ご返送いただければ」という、自分のところに葉書が返送されてきたあとの状態を想定している。
すでにそうなっている状態のなかに自分も身を置くのが、日本の人たちはなによりも好きなのだろう。

(しかし)葉書が返送されるからには、返送する側は返送というアクションをとるのだし、返送を促すための訴えかけというアクションを、返送を求めるほうはおこなうのだが。

英語の例文を見ると、この両方の動詞がごく当然のこととして、あるべきところにある。
返送を促すための訴えかけをおこなうのは、出版社の人たち、つまりこの短文の主語となるべき We という人たちだ。
だから、Weが主語になり、そのWeが引き受ける動詞はinviteだ。そして相手に促す返送というアクションは、returnという明確な動詞が引き受ける。

なるほどと思う。こういう日常の常套句を比べてみると、確かに日本語と英語はまるで違う。

片岡義男は、日本語について、こう分析する。

主語がIやYouなら、それらは主語にならないし、IやYouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞も、必要ないから姿をあらわさない。
動詞が働きかける目的語その他、主語からの一連の構造的なつながりはそこになく、そのかわりに、いつのまにかそうなっている状態、というものが言いあらわされる。

そして、片岡義男は、日本語について、主語が不在ということは、主語の主語たるゆえんである思考も隠れ、結果、思考に基づく行動も隠れ、思考と行動を放棄しているという。

片岡義男の考えとしては、日常生活で用いられる常套句にこそ、言語の性質が現れ、その言語の性質が、日本語を話す人の、あるいは英語を話す人の思考や行動に大きな影響を及ぼしているということなのかもしれない。

片岡義男の言い方は、時に日本語のそういった性質をとらえ、日本人と日本の社会を批判しているようにも思えるが、語気はそれほど鋭くない(ように私は感じる)。

この本の副題のように、何故こんなにも違うのか、まさに、その違いを楽しんでいるのだと思う。

2014年10月2日木曜日

文房具を買いに/片岡義男

片岡義男が、さまざまな文房具(ほとんどが外国製)の写真を撮り、その文房具についての解説とともに、彼のその文房具に対する考え、思いが語られているエッセイだと思う。

たとえば、モールスキンの手帳について
モールスキンの手帳ノートブックは百九十二ページだ。ひと月で一冊を使いきるとして、一日分として平均して六ページのスペースを割り当てることができる。そしてひと月の半分ほどは、一日分を七ページにすることが可能だ。単純に日割りにするとそうなる。日ごとに変化はあっていい。ただし、ひと月に一冊というペースは、守りたいと思う。一冊を二年も三年も使うようでは、この手帳の良さを生かしきることができないはずだから。一年で十二冊。十二冊の黒い表紙のモールスキンのページに、自分の筆跡でびっしりと書き込まれたさまざまな事柄が、自分にとっての一年なのだ。その十二冊のなかに、その年の自分がいる。少なくともその痕跡くらいは、どのページにも雄弁に残っている。
手帳について、ここまで熱く思いを語る人もいるのだな、と若干ほほえましい気分になる。
手帳をほとんど書かない自分からみると、“手帳の中に自分がいる”と感じるまで、書き込む人は、私から見れば、異次元に住んでいる人のようだ。
たまに、びっしりと書き込んだ手帳を持っている人を見ることがあるが、同じような心持ちなのだろうか。

この文章を読んで、一日に使うページ数の説明なんて、どうでもいいと思う人もいるかもしれない。

しかし、この本は、さまざまな文房具について、

手帳、鉛筆、鉛筆クリップ、電子辞書、封筒、パステル、ボールペン、ステイプラー、サインペン、消しゴム、香料としてのチューインガム、ポスト・イット、糊、鋏、ノートブック、スケジュール帳、インデックス・カード、リーガル・パッド、ロディアのパッド、クレール・フォンテーヌのノートブック、ライティング・パッド、置き時計、輪ゴム、クリップ、修正テープ、シール、電卓、AIR MAILのレイベル、切手、モイスナー、宛先レイベル、押しピン、テープ・ライター、ワン・ホール・パンチ、定規、クレヨン・ボックス、写真機、白墨、黒板消し、コンパス

について、片岡義男が、その形状を写真に撮り、その作り、色、寸法、特徴について、執拗に語り続ける。

ひとつの文房具の紹介が終わると、切れ目なく、次から次へと、新たな文房具が現れる。
片岡義男が机に座っていて、彼の目の前の机にある文房具を次から次へと取り出し、説明しているかのように、ひとつづきに説明が流れる。

その律儀ともいえる細かな描写に、若干疲れる読者もいるのではないかと思う。
たとえば、村上春樹が、安西水丸の絵とともに、シェービング・クリームの缶について書いた軽いタッチのエッセイとは、まるで違う空気が流れている。

一言でいうと、男くさいのだ。例えば、女性はメモ帳について、以下のような文章は、まず書かないだろう。
…横罫は淡いブルーで二十二本。間隔はここでもまだ七ミリだ。そして左の端から二十五ミリの位置に、淡い赤で縦罫が二本、二ミリ間隔で垂直に引いてある。この罫のありかたがジュニア・リーガル・ルール(罫)と呼ばれている。
しかし、この文章は、その後、以下のように続いていて、ひとつの文明批評になっているところも面白い。
リーガル・パッドのリーガルとは、罫線のありかたよりもはるかに、物事のとらえかた、ものの考えかた、論理の展開のさせかたなどを、意味する。自分の論理を強めたり補完したりする可能性のあるものは、ひとつ残らず書き出して列挙し、それらを作戦的にいろんな方向から観察し、取捨選択しつつ修正をほどこし、論理の筋道を作り、それに沿って論理を組み上げていく。そしてその論理によって、いかなるかたちにせよ、自分を勝利に導いていく。リーガル・マインドの基本はこれであり、これはアメリカ社会のあらゆる細部にまで、徹底して浸透している。

2014年10月1日水曜日

片岡義男という存在

片岡義男という人は、私にとっては、ずっと謎の存在だった。

1980年代、角川文庫の棚一列を埋めつくしていた彼の作品。
数多くの映画化された作品。

たぶん、一度はページを開いたことはあると思う。
でも、読まなかった。
おそらくだけれど、自分の好みの文章ではないものを感じたからなのだと思う。

彼の作品は、生存している小説家としてはめずらしく、青空文庫で読める
そして、短編「私とキャッチ・ボールをしてください」を読んで、やはり、彼の小説を、数冊読むことはないと感じる。

その昔(1988年)、NHKのドラマで、「ハートブレイクなんてへっちゃら」という単発のドラマが放映された。
気障な作家が女性にからむ4話のショートオムニバスみたいな作品なのだが、1話(バイクに乗った女の子をお月見にナンパする話)と4話(酔っぱらった洞口依子さんと、なんかグダグダになる話)だけ、おぼろげに記憶に残っている。

唯一、触れた彼の作品(原作)だったが、不思議と原作を読もうという気にならなかった。

そうして、時間が経ち、ここ十年ばかり、本屋で並ぶ新刊で、よく彼の本が目に留まるようになった。

文房具の本や、ペーパーブックの表紙の本や、英語や翻訳についての本。

手にとって読むうちに、不思議な印象を覚えた。
まるで、翻訳文みたいな、若干ぎこちない日本語。
でも、小説よりいい。というか、テーマに不思議となじんでいる。

そう、思いながらも、やはり、これらの本も本格的に読まないで素通りしてきた。
ここまで縁がないなら、そのまま行けばいいのだが、最近、「文房具を買いに」を、まともに読んでいる。

村上春樹の9つ上の1940年生まれ。
原爆投下のキノコ雲も目撃している。

同期は何と、唐十郎、志茂田景樹、ル・クレジオ、立花隆、C・W・ニコル、池内紀。

そして、不思議な気持ちになる。この人は、日本の文学界において何者なんだろうと。

「文房具を買いに」の感想を書きたかったのだが、片岡義男という存在が、私の中では予想以上に膨らんでいて、まず、これを吐き出す作業が必要だった。