柴田元幸の「翻訳教室」を読んで、ひさびさに村上春樹との共著「翻訳夜話」を再読した。
印象に残ったのは、やはり、翻訳は直訳(逐語訳)が正統的で、意訳をすると原文からずれたり、凝りすぎになってしまい、好ましくないという考えを二人とも持っていたことだ。
この本には、レイモンド・カーヴァー(村上春樹が専門で訳している)と、ポール・オースター(柴田元幸が専門)の短編について、村上・柴田が「競訳」しているのだが、その二人の訳文を話し合っている中で、村上春樹が過去に訳したカーヴァーの文章の一文について、(訳の)方向性は合っているが、今の自分だったらこうは訳さない、原文の忠実さから離れてしまっていることをコメントしていた。
確かに、村上春樹の訳は、逐語訳に近いと思う。
これはチャンドラーの「ロング・グッパイ」を原文と照らしながら読んだ者の感想である。
好みからいうと、清水俊二訳の言い回しのほうが好きな場合が多いが、原文への忠実さという観点では、文句なしに、村上春樹訳のほうが優れている。
この翻訳のスタンスに興味を覚えたのは、この本の中でも論じられている「重訳」の問題だ。
たとえば、村上春樹の作品がノルウェーでは四冊翻訳されているが、そのうち、二冊は日本語からノルウェー語への直訳で、残り二冊は英語からノルウェー語への翻訳だったという。
このように、日本語から英語、英語からノルウェー語という一つの外国語を経由して翻訳されることを「重訳」というらしいが、ほとんどの場合、この経由言語は「英語」らしい。出版業界では、事実上、英語が「リンガ・フランカ」(共通語)の地位を占めているという。
そして、「重訳」の場合、英訳の原文に対する正確性が特に重要になってくる。
いかに精度を高くして、オリジナルを忠実にコピーできるか。
まるで、コピー機の性能のようだが、それによって、「重訳」の結果、生じるノイズの量が変わってくる。
日本語の「リンガ・フランカ」としての地位は低いので、二人とも「重訳」のことを考えて、直訳(逐語訳)を重視するというわけではないのだろうが、原文(オリジナル)を大切にするという基本姿勢は、原作者へのリスペクトという思いから考えると、自然なスタンスだと思う。
(純粋に、お金のために気に入らない作品を訳している翻訳者もいるとは思うが)
村上春樹が、翻訳家を目指す若いひとたちに、好きな作家と好きなテキストを見つけて、一生懸命翻訳してくださいと言っているが、これが上達の一番の秘訣なのかもしれない。
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