2012年5月14日月曜日

マンガでしか表現できないもの

山崎正和氏の「装飾とデザイン」に、マンガについて、こんな風に語っている部分がある。
若者を中心に現代人は一方では純粋絵画に疲れ、他方では純粋言語表現、とくに活字印刷物に飽きて、いわば両者の混合物を愛しているのかもしれない。 
人びとは造形表現を「読む」ことを好み、逆に言語表現を「見る」ことを楽しんでいるといいかえてもよい。 
これが将来、表現の鑑賞の斬新な発展につながるのか、それともたんなる怠惰な中途半端に終わるかは、いまのところわからない。
…たえず動きつつ流れ去る映画やテレビの映像はもちろん、数多くのコマ数に分割されて移行するマンガの画面も、一枚ずつの絵として注目されるよりは、倉卒たる 「ながら鑑賞」の視線で流し読みされることになるからである。
実に的確な指摘だと思う。
確かに、私の感覚で言うと、「マンガ」は連なる絵の流れから物語を読みとり、 文字 (セリフ、解説など) は見ている感覚に近い。
そして、テレビを見ながら、音楽を聴きながら気軽に読むには、ぴったりの媒体だ。

たとえば、山岸涼子の作品には、歴史や神話を扱った高尚(?)な物語もあるが、これを、単に文字で表現したら、読者の大多数は読もうともしないだろうし、読んだとしても途中で放り出してしまうだろう。

私の好きな「月読」という作品も、古事記の「三貴子」と言われる天照大御神、月読、須佐之男の話をベースにした物語だが、かなり大胆な解釈になっている(天岩戸に隠れる話の背景など)。
文字だけだったら、ここまで鮮やかに飛躍した物語に変えることはできなかっただろう。

腕のある小説家であれば、あるいは、面白い作品にできるのかもしれない。しかし、完成した作品のページ数からして、倍以上に膨らむだろう。
読者に、まどろっこしい背景を説明し、理解させる手続きを踏むことなく、いきなり、物語の中心に持っていく力。そして、イージーに読むことができる。

これは、マンガの強みですね。
山崎氏は、若干懐疑的な感じですが、日本のサブカルチャーとして、世界を制覇していく力を確かに持っていると思います。

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