2012年5月31日木曜日

Strange Days

スペインの不動産バブルによる金融不安の影響で、円高・株安になる日本

世界中の人々がやめさせたいと思っているのに、止まらないシリア独裁政権の暴力

一年前には誰もが要らないと思っていたのに動き出す原子力発電所

そんな奇妙な日々

2012年5月28日月曜日

情報戦

NHKスペシャル「未解決事件/file.02 オウム真理教」が、とても興味深かった。

第二夜で放映された内容によると、地下鉄サリン事件が起こる約半年前(松本サリン事件が起きた1ヵ月後)には、警察は、オウムとサリンの接点にすでに気づいていたというのだ。

しかも、松本サリン事件を担当していた長野県警、坂本弁護士一家殺害事件を担当していた神奈川県警が、それぞれの捜査で、その事実を掴んでいた。

しかし、これら県警の情報提供を受けた警視庁は、サリンを作るだけの行為(日本ではこれを犯罪とする法律がなかったという)では、直ちに、強制捜査に踏み切ることができなかった。

1995年1月には、読売新聞一面に、オウムとサリンの疑惑について、マスコミがすっぱ抜いても、なお動けず、2月に起きた公証役場事務長監禁致死事件で、ようやく、3月22日に強制捜査を実施することとなった。

しかし、その情報を事前に察知した麻原が、これまでと思い、自らハルマゲドンを起こすべく、サリンを急遽作らせ、3月20日、霞ヶ関につながる地下鉄各線にサリンを散布する計画を立案した。

警察は、地下鉄サリン事件の情報を察知できず、逆に、オウムは、強制捜査の情報を掴んでいたのだ。

同じような話は、1990年10月の熊本県波野村の強制捜査の時にもあった。

当時、教団のNo.2であった上祐氏が語っていたところによると、このとき、すでに、オウムは武装化計画を実施しはじめていたが、オウムが、熊本県警が強制捜査に踏み込む情報を事前に入手(女性信者の夫が熊本県警に勤めていたという)し、強制捜査時には、武装化の事実を隠蔽することができた。

結局のところ、警察は、情報戦でオウムに負けてしまったといってもいい。
情報がぽろぽろ漏えいするあたりも、情報セキュリティが相当に甘かったと言わざるを得ない。
(今は改善されているのだろうか?)

奇しくも、原発事故に関する国会の事故調査委員会で、官房長官であった枝野氏が、「情報を政府として十分に集約し、それに基づく予想、想定ができなかったことこそ反省すべきだ」と述べていたが、オウム事件にも十分言えることだったと思う。

2012年5月25日金曜日

いつも、前のめり

京浜急行。

普通電車しか止まらない駅の近くに住んでいるが、横浜まで行くのに、普通電車で下って行くより、上りの電車で二駅下がって、快速特急に乗り換えた方が早く着く。
普通電車は、途中駅で、快速特急の通過待ちになってしまうのだ。

初め、なかなか、その感覚になれなかった。頭では分かっているのだが、普通電車で下るほうを選択しようとする自分を、一回、リセットするような感覚。

真っ正直に、横浜に行きたいから下り電車に乗ることを選択すると、後から来た快速特急に抜かされてしまう。
早く着きたければ、要領のよさが求められる。

そんなことを考えていたら、ふと、田舎の国道を思い出した。
その国道は単線で、二車線なら可能な追い抜きがないのだ。

だから、先頭を、おじいさんが運転する軽トラが走っていると、簡単に渋滞になってしまう。
そんな、のどかな光景に、いつも、いらいらしていた。追い抜きのない競争のない道路に。

田舎自体を憎んでいたかもしれない。年寄りが幅を利かす競争がない社会。

私が都会で感じる心地よさというのは、地下鉄のエスカレーターなどでも必ず右側が追い抜き用に確保されているところで、早く歩きたい人間が意識されているというところだ。

目の前を人が歩いているのをみると、反射的に抜かしたくなってしまう。
自分でも何かに追い詰められているような感覚がある。
いつも、前のめりなのだ。

いつか、早足(競争)にも疲れ、左側で足を止め、エスカレーターに身を任せることになるのだろうか。
でも、今は、ちょっとでも早く、人より前を進みたい。

2012年5月18日金曜日

エリアーデの日記から

身体的風景の中で見られた人間の行動。

生活において胃のように行動する人もいれば、肝臓のように行動する人もいる。
更には性器のように、脳髄のように等々。

そして付け加えねばならないが、もっと小さい、あるいは無名の器官、例えば突起とか鼻の如く振舞う人もいる。

2012年5月15日火曜日

From A Window / Nobody

鬱陶しい雨ですが、音楽で吹き飛ばしてしまおう。
'80年代、よく聴いていました。

でも、このアルバム以外は、よく知りません。



イケイケな感じですが、今、 聴いても、クオリティが高いと思う。

2012年5月14日月曜日

マンガでしか表現できないもの

山崎正和氏の「装飾とデザイン」に、マンガについて、こんな風に語っている部分がある。
若者を中心に現代人は一方では純粋絵画に疲れ、他方では純粋言語表現、とくに活字印刷物に飽きて、いわば両者の混合物を愛しているのかもしれない。 
人びとは造形表現を「読む」ことを好み、逆に言語表現を「見る」ことを楽しんでいるといいかえてもよい。 
これが将来、表現の鑑賞の斬新な発展につながるのか、それともたんなる怠惰な中途半端に終わるかは、いまのところわからない。
…たえず動きつつ流れ去る映画やテレビの映像はもちろん、数多くのコマ数に分割されて移行するマンガの画面も、一枚ずつの絵として注目されるよりは、倉卒たる 「ながら鑑賞」の視線で流し読みされることになるからである。
実に的確な指摘だと思う。
確かに、私の感覚で言うと、「マンガ」は連なる絵の流れから物語を読みとり、 文字 (セリフ、解説など) は見ている感覚に近い。
そして、テレビを見ながら、音楽を聴きながら気軽に読むには、ぴったりの媒体だ。

たとえば、山岸涼子の作品には、歴史や神話を扱った高尚(?)な物語もあるが、これを、単に文字で表現したら、読者の大多数は読もうともしないだろうし、読んだとしても途中で放り出してしまうだろう。

私の好きな「月読」という作品も、古事記の「三貴子」と言われる天照大御神、月読、須佐之男の話をベースにした物語だが、かなり大胆な解釈になっている(天岩戸に隠れる話の背景など)。
文字だけだったら、ここまで鮮やかに飛躍した物語に変えることはできなかっただろう。

腕のある小説家であれば、あるいは、面白い作品にできるのかもしれない。しかし、完成した作品のページ数からして、倍以上に膨らむだろう。
読者に、まどろっこしい背景を説明し、理解させる手続きを踏むことなく、いきなり、物語の中心に持っていく力。そして、イージーに読むことができる。

これは、マンガの強みですね。
山崎氏は、若干懐疑的な感じですが、日本のサブカルチャーとして、世界を制覇していく力を確かに持っていると思います。

2012年5月13日日曜日

エリアーデの日記

エリアーデの日記は、読んでいて飽きない。

金欠、騒音、暑さと寒さ、疲れ、進まない仕事、亡命的な身分から生じる不安…
それらが書かれている文章は決して明るいものとはいえない。

しかし、アパートの隣人や街の騒音に悩ませられ、ついに耳栓をしてしまう話なんかは、思わず笑ってしまう。
昨夜、初めて耳に蝋の栓を詰めて眠ろうと試みた。初め奇妙な感じ。 
世界から私ひとり切り離されて、私の周囲ではわけのわからぬことが起こっているという印象。 
五分毎に耳栓を取り外す。静かだ。耳栓をする。すると実際にはありそうもない物音が聞こえる。 
蚊が一匹近づいて来て旋回する音(カルカッタの最初の数夜のように)。
喧騒、呻き声、ブランデンブルグ協奏曲第二番の断片。
しかし、私は意地になった。そしてようやく眠ることに成功する。耳栓をしたままで。
エリアーデが、ブログを書いていたら、間違いなく、私は熱心な読者になっていただろう。

他人の日記的な短い文章を読んで、こんなふうに面白さを感じるのは、レイモンド・チャンドラーの書簡集(「レイモンド・チャンドラー語る」収録)以来かも。

2012年5月11日金曜日

八重洲ブックセンター

東京駅に寄るついでがあったので、久々に、八重洲ブックセンターに寄ってみた。

大体、このお店には、探しても見つからない本があったときに訪れるのだが、
今回は、「エリアーデ日記」を探しにきたのだ。

最近は検索システムをどこの本屋でも置いているが、金曜日の5時台ということで、お店は比較的空いていたから、店員の女性に聞いてみた。

彼女はコンピュータですばやく検索し、奥まった本棚の所に案内してくれた。
あいにく、上巻しか見つからなかったが、すぐに、

「よろしければ、出版社に電話で在庫を確認しましょうか?まだ、営業時間だと思いますので」
と言ってくれた。

確認してもらったところ、結局、出版社でも在庫がなく、再版の予定もないということで、下巻は手に入らなかったが、お願いしてから5分程度で、こう、てきぱきと対応してくれると、すごく気持ちがいい。

2012年5月10日木曜日

思い込み

最近、オリジナル・ラブの「ビッククランチ」を、よく聴いている。
二十代のころ、こんなアルバムを作るようでは、もう駄目だなと思っていた。
ちょっと聴いて、自分に合わないと思い、すぐに棚の奥に片付けた。

今、聞きなおすと、すごくいい歌が多いことに気づいて慄然とした。
自分は、相当いい加減な聴き方をしていたなと。

二十代、三十代の頃は、そういう事が多かったような気がする。
歌に限らず、ちょっとでも気に入らないと、すぐに諦めて他のものを試した。

ごめんね。
そうやって、さよならしてきたものたち。



2012年5月4日金曜日

氷山の南/池澤夏樹

科学問題を扱いながらも暗い考えに陥らず、3.11以降の世界観に耐えられて、前向きな意思と明るい知性を感じることができて、肩ひじ張らずに楽しめる物語。

そんな欲張りな願いをかるがるとクリアしてしまったような小説だ。

時は2016年。主人公はアイヌ民族の血をひく北海道出身の十八歳の少年ジン。
彼は、南極海に浮かぶ巨大な氷山をカーボン・ナノチューブで包み、オーストラリアまで曳航し、砂漠の灌漑用水に役立てることを目的とする船「シンディバード号」に密航する。

見つかって、船長たちに問い詰められる主人公は、単に氷山を見たかったからとは言わずに、ゲームやファンタジーに熱を上げる同世代の空気に袋小路を感じてしまい、その閉塞感を打ち破るきっかけにしたかったのだと演説する。

順応性と賢さ、このへんで単なる行動力だけの少年ではないことに気づき、船の責任者たちは、彼に船に残れる条件を提示する。
それは、船内で彼に仕事を与えるという者がいれば、船に残そうというものだっだ。

そのために主人公が作った職業募集のポスターの自己アピールの言葉がいい。

「積極的な性格。
充分な英語の能力。
身体健全にして頑強。
雪山ガイド、スキーならびにスノーボードのインストラクターの経験あり。…
現在の身分は密航者。」

このポジティブさ。
実際、アボリジニの少年の絵はがきをきっかけに密航を決意し、そのアボリジニの少年からの「会いに来い」のよびかけに、ためらいもなく、南極海からオーストラリアに移動してしまう行動力。
こんな少年に魅力を感じない人はいないだろう。

主人公は、願いかなって、厨房でパンを作る仕事と船内の新聞作成の仕事に着く。
船の中は、国際社会の縮図。さまざまな人種・宗教・職業の大人たちがいる。
彼は、新聞記者として、さまざまな仕事に携わる大人たち(殆どが専門家)にインタビューをしていき、それが読者にとっても、今回のプロジェクトの全貌がわかる仕組みになっている。

そして、それとともに、このプロジェクトに敵対する謎の団体「アイシスト」の存在が明らかになってくる。
シーシェパードのような暴力的な粗雑な反対行動ではなく、無人飛行機を飛ばし、上空から、シンディバード号に、南極の氷片を降らせ、秘密のはずの船の位置情報が漏洩していることを気づかせ、裏切り者がいるのではないかと疑心暗鬼にさせるという洗練された組織。

氷を見つめながら、人間の過熱する欲望(経済)を冷やし、投機を控え、静かに暮らすことを提言する「アイシスト」の反資本主義的な理念は、人類の最大幸福を追求するため、氷山を曳航し、砂漠に畑を作るという経済活動を目標とするプロジェクト(シンディバード号)に向けられた言葉にとどまらず、まさに今、原発の再稼動の判断を迫られている日本社会への警告のようにも思える。

シンディバード号のプロジェクトに魅力を感じながらも、「アイシスト」の考えにも正当性を感じてしまう主人公。でも、そんな混乱さえ、主人公は、「アイシスト」の代表者に宛てた手紙のなかで、こんな素敵な言葉に変えてしまう。

「…そしてそのことをぼくは嬉しく思っています。未来というのはいつだって混乱の向こう側にあるものでしょうから。」

軽い気持ちでページをめくっていたら、最後の最後まではらはらさせられて、終わりまで読みきってしまった。そのくせ、読後感も深い。

読んだ後に、心がそわそわして、日常がちょっと異なる風景に見えてしまうような、みずみずしい力に満ちた小説だ。

2012年5月1日火曜日

緑色の観念形態/R.Tamura

犬は内なる犬のなかで走り
猫は内なる猫のなかで眠る

鳥は空に釘づけになったまま鳥のなかで飛び
魚は砂漠をこえて水にあえぎながら魚のなかで泳ぐ

人は内なる人のなかで走れないから
観念形態のなかを疾走する
猫のように人は不定形の眠りを眠らないから
不眠の夢を見る

人はまた
魚のように泳げないからせめて
観念が浮上するように工夫する

まして鳥のように飛べないから
人は観念に翼をつけ
墜落する快感を味わおうとする

                  「5分前」より