2024年2月2日金曜日

陥穽 陸奥宗光の青春/辻原登

日本経済新聞 朝刊で昨年3月から掲載されていた物語が、今年1月末をもって終了した。

私は、今まで陸奥宗光というと、坂本龍馬の子分的存在で、明治維新後は、外務大臣として、外国との不平等条約撤廃に取り組み、カミソリ大臣と呼ばれていたぐらいの知識しかなかった。

この物語では、陸奥が西南戦争の勃発を奇貨として、大久保利通が作り上げた有司専制(薩長という藩閥が独占する政治体制)の転覆を計画したものの、失敗し、山形監獄に移送されるところから始まり、宮城監獄から特赦で釈放されるまでの現在(いま)と、陸奥宗光が小二郎と呼ばれていた少年期に遡り、高野山の学僧から江戸に出て、伊藤博文や桂小五郎、そして坂本龍馬と出会い、明治維新へと進む過去の物語が、交互に入れ替わり徐々に近づいていく。

坂本龍馬に「両刀を差さなくても食べていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめた陸奥が、なぜ政府転覆などという無謀な挙行に及んだのか、「陥穽」になぜはまってしまったのかという点が、この小説の主題だろう。

一つには才走っていた陸奥からみると、明治政府の要職を占めていた藩閥出身の政治家たちの無能さが許せなかったという強烈な自信と不満があったからだと思う。

しかし、彼の政府転覆計画は、きわめて杜撰で、大江卓らと進めていた計画のあらかたが川路や大久保に漏れていたというお粗末な「行動」しかできなかった。

この点、西南戦争における西郷の力を過信し、外交官に必要な精緻な「戦略」も練らず、「情報収集能力」もろくに発揮していなかったことが分かる。

要するに全く無謀な行動に突っ走ってしまったのだが、しかし、ここまで彼を追い込んだ閉塞感や無力感は、相当なものだったのだろう。

陸奥が五年弱という長い監獄生活の中で、自分を振り返る時間を持てたこと、ベンサムの著書の翻訳など、知的活動を怠らなかったことが、出獄後の彼の活躍に大いに活きたのだと思う。

陸奥が肺病を抱えながらも、念願のヨーロッパ留学を通して、外国で鬼のように勉強に励んだエネルギーも、この長い監獄生活の遅れを取り戻し、自分の能力を最大限に高めることに必死だった思いが伝わってくる。

この物語では、その後の活躍は描かれていないが、陸奥が外務大臣の職に就いたのは、明治二十五年の第二次伊藤内閣。肺結核で亡くなるのはその五年後である。その五年間に、日本が不平等条約を結んでいた、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスなど15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた。

そういう意味で、陸奥宗光は徹底した仕事人間だったと思う。彼には美しい妻もいたが、色恋は二の次だった。そういう点は、彼が憎んで暗殺しようと思っていた大久保利通と共通していた。

私がこの物語に惹かれたのは、挫折を重ねながらも、自分を見捨てることなく、知的好奇心を頼りに少しずつでも前に進み、立ち直ろうとする青年の姿を見届けたかったせいかもしれない。

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