まず、小野篁が、小倉百人一首の
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
の作者であった。
この歌は、小野篁が、遣唐使船の乗船を仮病を使って断ったり、遣唐使を諷刺するような詩を作ったことが、嵯峨天皇の逆鱗に触れ、隠岐の島に流された時の歌らしい。
また、小野篁は、身長が六尺二寸(約188㎝)の巨漢だったらしいが、頭の鋭い機知に富んだ男でもあったらしい。
嵯峨天皇が、「子子子子子子子子子子子子」を何と読むと問うたところ、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と即答したという話が、宇治拾遺物語の『小野篁、広才のこと』に収められている
話は、「小野篁妹に恋する事」に戻るが、谷崎は、この小野篁が書いた私小説的日記「篁日記」を、「少将滋幹の母」を書く際に読んで小説にしようと思ったが果たせなかったことを、まず述懐する。
何が私小説的かというと、小野篁自身と異母妹との恋愛が、彼女とやりとりした和歌を収めつつ、叙事文で率直に述べられているところが、いかにも近代的私小説の雰囲気があるということだ。
しかも、その物語は異様なものである。異母妹に懸想し、遂にはその妹を妊娠させる。
異母妹は、つわりの苦しみの最中にその妹は死んでしまうが、死後も夜な夜な、その幽霊と語らい続けて三年年ぐらい暮らしたという一種の奇譚だ。
谷崎の文章は、どこまでこの「篁日記」をベースに脚色しているのかは分からないが、話は面白い。どちらかというと、小野篁の熱意に、異母妹が絆されてしまったという雰囲気が描かれている。
しかし、この小野篁は、一方で如才ない男だったらしく、異母妹の死後、大学生の身分でありながら、右大臣が参内するときに、その娘を嫁にほしいという趣旨の漢文を差し出し、それが首尾よく成功したという逸話も最後の方で述べられている。
面白いのは、谷崎が、この小野篁が書いたその漢文を、「独創的な思想もなければ表現もない」と、切り捨てているところだ。
恰(あたか)も今日の大学生に、英米人や仏蘭西人や蘇聯(ソ連)人の真似をして得々たる青年があるのと同じく、平安朝の大学生は一にも二にも中国に律(のっと)って及ばざらんことを恐れていたのであろうが、こんな文章を中国人が見たら果たして何と感じるであろうか。千年の昔に源氏物語を生んだわれわれ国民の誇りである一面に、こう云う文章が名文として持て囃された時代があることは、われわれ日本人の事大主義、属国根性を示しているようで情けなくもある。戦後の日本に対する谷崎の批判的な態度がにじみ出ていている。
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