2014年5月26日月曜日

大飯原発運転差止請求事件判決

大飯原発の運転再開を認めない判決を出した福井地裁の対応。

私も、その判決要旨を読んでみました。
http://www.news-pj.net/diary/1001
http://www.cnic.jp/5851

今回の判決は、読売新聞などで、原子力規制員会の判断を無視しているとか、科学技術を知らない裁判官の現実離れした判決であるとか、色々な批判を目にするが、

人の生命、生活を守るほうが、電気を生み出す経済活動より優先されるべき

という、ある意味、根本的なとてもシンプルで、当たり前すぎることを言ってるだけに過ぎないような気がする。

しかし、何故、こんなに当たり前のことが簡単なことではないように、皆言うのだろう。

夏場の電力が不足するとか、安い電力が手に入らなくなるとか、日本の経済が失速するとか、環境問題(CO2)とか。

子供が駄々をこねるように、色々と言い訳するが、結局のところ、もっと電気を使って、大量に物を生産して、日本は少子化だから、新興国にも輸出して、消費させ、お金をもっと得て、裕福になろうという欲望を肯定しているだけではないのか。

このエネルギー問題は、そういう身もふたもないような本音のところまで下りて行かないと、物事の本質は見えてこないのかもしれない。

そして、そう考えていくと、この大人が子どもに言うような当たり前のことが、私たちに突き付けてくる意味も考えなければならない。

原発の稼働を止めることで、本当に経済は失速するかもしれない。失業率も高くなるかもしれない。CO2の増加を抑えるため、節電も必要になるかもしれない。生活も今より不便になるかもしれない。今より裕福にはなれないかもしれない。

しかし、2011年のあの事故の時に、私たちに突き付けられた問題の本質は、この生命の安全と、経済活動の、どちらを優先するのかということだったのではないだろうか。

2014年5月25日日曜日

落葉/ガルシア・マルケス

マルケスの初期の短編が集められた作品集。

これが、マルケス?と思わせるような他の小説家の手法が読み取れるものもあるが、やはり、圧巻なのは、「百年の孤独」に繋がりのある「落葉」や「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」などだ。

葬式に連れられた男の子とその母親、そして、その母親の父である大佐。その大佐の家に突然現れて居候し、孤独のうちに死んでいった医師。

その医師は、村人の急患の診療にも応じず、村人から嫌われ続けている。
葬式に来た町長は、死んだ医師の死体の逆さ吊りを要求する。

バナナ会社が進出し、村から搾取し続け、去っていった後の荒廃したマコンド村の空気。
蔦は家々を侵し、狭い通りには雑草が伸び、土塀には亀裂が走り、女は昼日中に寝室でトカゲと出くわすのです。わたしがあらためてマンネンロウとオランダ水仙を栽培するのをやめてからは、そして、目に見えない手が食器棚のクリスマスの皿を砕き、誰も二度と着ようとはしない衣服の中の虫を太らせはじめた時からは何もかもが破壊されているように見えます。
世界の終わりのような死に行く村の空気が、何故、こんなに魅力的なのだろう。

「マコンドに降る雨を見たイサベルの独白」は、非常に短い短編だけれど、ひたすら雨が振り続けるマコンドの中で、イサベルの意識が少しずつ狂っていく感覚が描かれていて、これも何とも言えず、引き込まれる世界観である。
この作品でも、相当長く振り続けるが雨が、物語の最後には降り止むことになる。
しかし、「百年の孤独」では、4年11ヶ月と2日間雨が降り続ける。

決して読みやすい小説たちとは言えないが、マルケスの魅力が分かる短編集と言っても嘘ではあるまい。

2014年5月19日月曜日

バルテュスと彼女たちの関係/NHK 黒鳥(ブラック・スワン)/山岸涼子

NHK BSで土曜日に放映していた「バルテュスと彼女たちの関係」は、豊川悦司がパリの美術商役で、あるマダムからバルテュスの調査を受け、彼の生涯に迫るというドラマ仕立てだった。

豊川氏が、佐村河内 某氏そっくり(笑)に見えてしまったところは、ある意味残念だったが、バルテュスの絵画とモデルの女性の変遷にターゲットを絞っていた部分は分かりやすく興味深かった。

アントワネット




テレーズ





三人姉妹





フレデリック





節子


アンナ(晩年は、絵筆が持てずにポラロイド)



特にバルテュスがヴィラ・メディチの館長になっていた時期は、正式な妻がアントワネット、実質的なパートナーはフレデリック、そんなところに節子さんが日本から呼ばれ、一緒に暮らしはじめるという複雑な関係だった。

才能のある男に気に入られ、その関心はしばらく続くが、やがて、別の対象へと移っていく残酷さ。
それが分かっていても、彼が望めばモデルにならざるを得ない力が働いたのだろうか。

ふと、山岸涼子のバレエを舞台にした短編漫画「黒鳥 ブラック・スワン」を思い出した。

主人公のマリアは、過去にも離婚歴がある敏腕振付師ミスターBに気に入られ、結婚することになる。しかし、マリアは、次第にミスターBの求める振り付けを踊れない自分に気づき、彼の興味の対象が別の若い踊り子に移っていることに気づき、無意識にその子を呪ってしまうという、ある意味、残酷な物語だ。

NHKの番組では、節子夫人のインタビューもあった。

晩年のバルテュスの実務的な部分をサポートし、実質的なビジネスパートナーになり得た節子夫人は、相当我慢づよく、クレバーな人だったのではないかという気がする。

番組では、バルテュスの絵画が、少女への性的興味とは切り離されていたかのような説明だったが、彼の絵には、そんな無難な説明をはみ出てしまう妖しい魅力がある。

2014年5月18日日曜日

愛その他の悪霊について/ガルシア・マルケス

ガルシア・マルケスの小説としては、非常に読みやすい本ではないだろうか。

冒頭、マルケスが若かりし日の新聞記者だった頃のエピソードが副えられている。

それは、サンタ・クララ修道院の地下納骨堂の遺骨撤去作業を取材した際、22メートルもの長さの髪を有していた少女の遺骨が発見されたというものだ。

マルケスは、子供のころから祖母に聞かされていた、狂犬病にかかって死んだが、数多くの奇跡を行った長い髪を花嫁衣装の尾っぽのようにひきずる十二歳の侯爵令嬢の伝説を思い出し、その遺骨が少女のものではないかという思いつきを得る。

この嘘のようなエピソードをもとに描かれた少女の物語は、実に面白い。

黒人奴隷貿易港がある街で、十二歳になったばかりの侯爵令嬢が野良犬に噛まれる。

傷もたいしたことがなく、周りもそのことを忘れてしまうが、ある日、放浪のインディオ女が、狂犬病の悪疫が迫っていること、そして、令嬢が狂犬に噛まれた事実を告げる。

それをきっかけに、父である侯爵はほとんど見捨てていた令嬢を急に意識しはじめ、彼女のために、死者をよみがえらせた逸話を持つ異端審問の疑いもかけられている医師に診察させ、彼女が狂犬病にかかっていることを知らされる。

しかし、本当に彼女が狂犬病に侵されたかどうかははっきりとしない。

むしろ、かかったと思い込んだ侯爵が彼女に施したさまざまな治療(怪しい医療行為、呪い師の儀式)で、健康が悪化し、本当に悪霊付きのような状態になってしまい、しまいには、悪霊退治のためにサンタ・クララ修道院に送られてしまうことになったのではないか。

黒人奴隷の生活習慣になれていた少女は修道院でも自分の居場所をみつけ、したたかに振る舞うが、それが原因で修道院側が悪魔付きとみなし、独居房で酷い扱いを受ける。

やがて、少女の存在を気に病んでいた司教が目をかけていた図書室司書が、不思議な夢を見たことをきっかけに彼女を救う任務が与えられる。
司書は彼女を何度か見舞ううちに、彼女に恋し、新たな悲劇がはじまる。

猥雑で蠱惑的で純粋で残酷。でも、イメージが美しい。

ガルシア・マルケスの作品は難解なものが多いと言われているが、意外と映画化に向いているのではないだろうか。

それと、短編「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」でも感じたが、マルケスは、少女の物語を描くのがとても上手い作家だと思う。

2014年5月17日土曜日

NHKスペシャル「集団的自衛権を問う」

集団的自衛権の行使容認を進める安倍総理大臣が設置した有識者懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が、昨日15日に、安倍総理大臣に対して報告書を提出。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou2/

これを受け、安倍総理大臣が当日の夕方、記者会見を行い、イラスト入りのパネル2枚を使って、集団的自衛権の行使容認や海外での自衛隊の活動拡大の必要性を説明し、政府として集団的自衛権の行使を可能とする検討を進めていく意思を表明した。

今日の夜、放映していたNHKスペシャル「集団的自衛権を問う」では、賛成派として、安保法制懇の副座長の北岡伸一教授と、安倍総理の首相補佐官の2名、反対派として、元内閣官房副長官補の柳澤協二氏、中野晃一教授が出演し、議論を交わしていた。

この集団的自衛権について比較的分かりやすい説明をしている北岡教授と柳澤氏の議論が聞きたかったので、興味深いものだった。

面白かったのは、安倍総理がイラスト入りのパネルを使って特に熱心に説明していた「周辺有事の際に在外邦人を輸送する米軍艦船の防護」について、柳澤氏が集団的自衛権の行使を用いなくても、法制度を変更すれば個別的自衛権の枠組みの中でも対応可能ではないかと考えを述べたのに対し、北岡教授もそれが可能であることをあっさりと認めたことだ。

「日本人自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない。これが憲法の現在の解釈です。」と強調していた安倍総理大臣と安保法制懇の主要メンバーである北岡教授の考えに相違があることを、他の発言でも随所に感じた。

もう一つ挙げると、このパネルで安倍総理が「まさに紛争国から逃れようとしているお父さんやお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たち…」と情緒的に国民に訴えていたことに対し、中野教授は、このパネルの後に、必ずハッピーエンドがある訳ではなく、むしろ、米艦船を防護した日本が、他国から反撃を受け、それに対してさらに応酬し、戦争に巻き込まれる蓋然性も高いこと、そして、日本人の命を守らなければならないと主張するならば、このようなリスクもきちんと説明すべきであると指摘していたことだ。

結局、集団的自衛権の本質が、自国が攻撃されていないのに、同盟国が他国から攻撃された場合などに、当該他国へ反撃できるようにするということなのだから、日本が他国と交戦状態に陥る可能性は、これまでより高まることは間違いないと言っていいだろう。

これは、やはり現在の枠組みである個別的自衛権(専守防衛)という方針とはまるで違うものだ。
歴代政権が、集団的自衛権の行使が憲法上認められないと判断していたのは妥当な見解だったのではないだろうか。

賛成派からは、集団的自衛権の行使ありきではなく、抑止力としてあくまでカードを多く持っておくことの意義を主張していたが、実際に行使できる状態になる以上、時の政府の判断により、そのカードを行使したとしても、われわれ国民としては文句は言えないことになるだろう。

安倍総理大臣の記者会見では、集団的自衛権のメリットばかり説明していたが、自衛隊が攻撃され死傷者も出る恐れもある。日本も第三国から攻撃される恐れもあるというデメリットもきちんと説明しておくのが理想的だったと思う。

ただ、国民にこのように安全保障を考えさせる契機を与えてくれたという意味では、安倍総理のおかげと言えなくもない。

これから日本が国際社会に果たしていく役割を踏まえ、集団的自衛権の行使容認が必要ということであれば、やはり、堂々と憲法改正の手続きをとり、国民の同意をとることが妥当な判断だと思う。

2014年5月12日月曜日

NHKスペシャル "認知症800万人"時代 行方不明者1万人 ~知られざる徘徊の実態~

認知症で徘徊(散歩とは違い、目的もなく、あてもなく歩き回り、時に迷子になるような行為)し、行方不明になってしまう人々は、NHKが各都道府県の警察本部に取材した結果、2012年の1年間で、のべ1万人弱にも上り、うち351人が死亡、208人が2012年末時点でも行方不明のままになっている、という実態が明らかになったという。

番組では、3年前に行方不明になった八十歳代の母親を探す家族や、行方不明で保護され、指輪や着衣に身元が分かる情報があったにもかかわらず、7年経った今も身元不明で家族に引き取られない七十歳近い女性が紹介されていた。

印象に残ったのは、釧路市の取り組み。

家族から捜索願いが警察署に届くと、すぐさま、地元FMに連絡が行き、SOS行方不明老人というコーナーで、氏名・服装・最後に目撃された日時などがアナウンスされる。
さらに、近隣市町村、タクシー会社、コンビニ、ガソリンスタンドなど多くの施設にも行方不明者の情報が情共有される仕組みが出来ているらしい。

http://www.kushiro.pref.hokkaido.lg.jp/hk/hgc/0000top/3000topix/kodomo/002/sos.htm

ポイントは、個人情報保護条例らしい。
個人情報は、原則、家族の同意がないと第三者には提供できない。
しかし、中には、身内の行方不明情報を周囲に知られることを躊躇する家族もいる。
その躊躇の間に命を落としてしまうケースもある。

釧路市では、徘徊による行方不明を 命にかかわる場合は同意無しで個人情報を提供できるという例外規定を適用し、このような運用を実現したらしい。

認知症の人を世話する家族の苦労には限界がある。
認知症に関する知識を持ち、社会全体でバックアップする体制を作らないと、これから本格的に迎える高齢化社会は乗り切れないと思った。

2014年5月11日日曜日

族長の秋/ガルシア・マルケス

2014年4月17日に亡くなったガルシア・マルケスの追悼文を池澤夏樹が書いていて、代表作である「百年の孤独」を除き、彼が推奨していた作品の一つが「族長の秋」だったので、読んでみた。

ページ数にすると240ページほどの中編小説なのだが、ものすごく長い物語のように感じた。

複数の人間の言葉が、独立した文章ではなく、一つの文章の中で融合しているため、誰が何の話をしているのかわからなくなることが多々あり、お世辞にも読みやすい物語とは言えない。

ラテンアメリカのどこかの国の独裁者(大統領)の物語。

権力と孤独、裏切り、陰謀、怠惰、虚偽、色欲。

大統領の意向に沿うようにと、宝くじが当たるように当選番号をコントロールする役目を負う少年たち。ラジオの悲恋ドラマでは、死にそうになるヒロインを大統領の意向で死なせないよう物語にする
大統領の色欲を満たすため、架空の女学校を作り、売春婦に女学生の格好をさせる。

そういったあり得ないような話も、例えば、北朝鮮という国を思い浮かべるとどうなのだろうと思ってしまう。

独裁政治は国民にとっても耐えがたく長く感じるが、それは独裁者自身にとっても終わりのない物語なのかもしれない。

その我慢を実感させるために、意図的にこんなに読みづらい文章にしたのかとも思う。