ドストエフスキーの最後の作品と言われる「カラマーゾフの兄弟」。
1880年(日本は明治十三年)に完成した作品で、古典といってもいい年代の作品だが、今読んでも、人間というものの生々しさが伝わってきてしまうほど精力にあふれた現代的な作品だと思った。
この小説には、様々な登場人物たちが出てくるが、誰一人として輪郭が薄い、存在感がない人物はいない。
皆が皆、何らかの”業”のようなものを背負っている。
善人と思われる人物でさえ、時に醜く、時にあくどい事をするが、反対に、悪人と思われる人物でさえ、時に美しく、時に気高い言動をする。
そこから総体的に感じられるのは、本当の人間とはこんなものなのだろうという一種の納得感だ。
しかし、現代の日本人の感覚からいうと、彼らは、あまりにも人間くさい。
まるで、ケン・ラッセルの映画に出てくるような、時に滑稽に感じるほど得体の知れないエネルギーに満ちた人々だ。
(当時のロシア人がそうだったのか。あるいは十九世紀の人間とはこういうものだったのか。)
会話も決して洗練されたものではないが、とにかく喋って喋って喋りたおす。
特に悪人と思われる人物ほど、よく喋る。
(父 フョードル・カラマーゾフ、長男のミーチャ、次男のイワン等。逆に善人の三男アリョーシャは基本的に長々と喋っていない)
日本やヨーロッパ、アメリカの洗練された小説ばかり読んでいると、そのしつこさと息の長さに圧倒される思いがする。
この小説に詰め込まれているテーマの数もとても多いし、その内容も重い。
性欲、放蕩などの情欲、金銭欲などの強欲、嫉妬、憎しみ、信仰、奇跡、神と悪魔、キリストとキリスト協会、父殺し、農奴制などなど。
特に、無神論者のイワンが語る「大審問官」と、そのイワンが悪魔と会話する部分は印象的です。
しかし、そういう重いテーマだけではなく、後半は殺人事件をめぐる一種の推理小説・裁判小説にもなっていて、法廷のやり取りなどは緊迫感とゴシップ的な内容に満ちていて、単純に楽しめる要素も盛り込まれている。
あらゆる現代小説の生みの親のような小説なのかもしれません。
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