この本は発売されたときに、本をめくって、とても読む気になれないと思い、本棚に戻した記憶がある。
稚拙な(といっては失礼か)イラストでカバーされた表紙がいただけなかったし、何より、シナリオ形式という”簡略”的な形式に幻滅したのではないかと思う。
この本を取るにあたって、何故、今更、この「幻魔大戦」を自分は読んでいるのだろうと自問する。
この小説で説こうとした幻魔という悪に対する正義は、少なくとも日本の現在において既に終わっている、ほぼ自明のことではないかという思いが、やはりする。
(まだ、世界では、”自明”ではない国もあるとは思う)
「幻魔大戦」発表後、日本の社会環境も大きく変わった。
「無印」の舞台であった1967年の頃のような高度成長期を通り過ぎ、行き過ぎたバブル経済を迎え、それが崩壊し、未来は決して明るいものではないという思いが今も続いているような気がする。
その間、ノストラダムスの地球滅亡の予言ははずれたが、ハルマゲドンというには大袈裟かもしれないが、近い出来事も起こっている。
「阪神大震災」、「オウム真理教地下鉄サリン事件」、「9.11アメリカ同時多発テロ事件」、「東日本大震災」、「北朝鮮の軍事的挑発」など。
しかし、何より、その前に、二度に渡る世界大戦、冷戦時代というハルマゲドンを人類はすでに経験していたのだ。
これらの出来事が起きたとき/起きているとき、私たちは”東丈”のような救世主を求めた/求めることはなかった。私たちは”東丈”が存在しない世界で生きている。
むしろ、多くの人々が、「幻魔大戦」の一連の物語で説こうとしていたとおり、その場その場で、自分自身が自覚して物事を考え、対処し、時には絶望しながらも、反省し、やり直し、人との、世界とのつながりを強くしていこう、という行動を、少なくとも日本では、「幻魔大戦」を読まずとも自然にとっていたのではないか、という気がする。
(ただし、世界規模では、この行動規範が共有化されていない国もあるとは思う)
そんな思いを持ちながらも、あらためて「幻魔大戦」を再読したのは、未完の物語に対する少年時代の欲求不満の解消と、最近、全く本屋で新刊を見なくなってしまった作者 平井和正の現状と、ネットでの音信不通に、寂しさを覚えたからかもしれない。
いずれにせよ、「ハルマゲドンの少女」を、初めて読んでみた。
今まで、疑問に思っていた部分が解消されたところもあるし、そうでないところもあるが、”ファイナル”と銘打たれている意味は確かにあると思う。
私が漠然と不満に思っていた未完の物語のあらすじの一部は提示されていたのだ。
過去のこのページでは「幻魔大戦」および「真幻魔大戦」の物語のあらすじを書いていたが、この作品だけは書けそうもない。
ネタバレしてしまうと、読む気を失ってしまいそうな気がする。
逆に言えば、今まであらすじを書いていた「幻魔大戦」および「真幻魔大戦」の物語は、ネタバレしても、読んで面白い作品であると十分確信していたからなのだが。
なお、作者は、幻魔大戦の続編として、2005年に『幻魔大戦deep』、2008年に『幻魔大戦deep トルテック』を電子書籍で販売している。
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