酒飲みで、酔ってしまうと、性格が意地悪になり、人を傷つけるような言葉づかいをしたり、妻を階段から突き落とす暴力をふるってしまう一面もあるが、どこか自分の人生を諦めてしまった人間に特有の優しさが感じられる言葉や行動が描かれている。
チャンドラーは、自身も酒に溺れた経験があるせいか、こういう屈折した人物の描き方がとても上手い。
チャンドラーの書簡集「レイモンド・チャンドラー語る」に収録されている短編小説「二人の作家」にも、ウェイドを彷彿させるような酒飲みの作家ハンクが描かれている。
ただし、ハンクは、ウェイドと違って、全く売れていない作家であり、妻も売れない劇作家だ。
二人は雄ねこのフィーバスと静かに暮らしているが、明るい未来を感じさせる才能や出来事はない。
ハンクは、常習的に車庫に足を運び、そのすみにおいてある“かめ”に入っているウイスキーをあおる。
しかし、ここでも、ハンクには憎めない人間味があふれている。
たとえば、妻が絶望して家を出て行くのを見送るときも。
「君の汽車が出て行くまで、車にいるよ」と、ハンクはいった。そして、彼女の腕を握った。こんな繊細な小説を書く作家だからこそ、レイモンド・チャンドラーの作品は、近年、ハードボイルド・ミステリというより、純粋に文学作品として評価される機運になってきたのかもしれない。
彼女は向こうをむいて、歩き去った。汽車がくるまで、彼はながいあいだ、車のなかに坐っていた。
酒が飲みたくなりはじめた。マリオンが汽車にのるとき、ふりむいて手をふるぐらいのことはするだろう、と、彼は思った。しかし、ふりむきもしなかった。待っている必要はなかったのだ。
とっくに家へついて、“かめ”の酒をあおっていられたのだ。待っていたのは、むだなことだった。
むだなだけではなく、むしろ、みっともないことだった。
彼は筋肉一つ動かさずに、汽車が出て行くのを見送った。それもむだなことで、ほめてもらえる姿ではなかった。
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