2022年9月26日月曜日

チリの地震/クライスト

クライストの小説は、多和田葉子の新聞連載で「ロカルノの女乞食」を一読しただけだったが、ツヴァイクの書いたクライスト論を読んで、その小説を改めて読みたくなった。

ツヴァイクは、クライストの両極端の二面性を取り上げ、彼の過剰な狂気のような自我は劇作のほうに反映される一方、小説については彼自身の影は一切映さず、完璧な文体で堅牢な物語を提供したと述べている。

「チリの地震」は、こんなあらすじだ。

修道院で密通を犯した二人のカップル、ジェロニモとジョゼフェが、その罪で首吊りの刑に処せられる。しかし、刑を執行しようとしたその刹那、大地震が発生し、多くの人々が命を落とす中、二人は命が救われ、二人の子供も助かる。

ジェロニモとジョゼフェは、当初スペインに逃げることを考えるが、避難生活の中、軍司令官のドン・フェルナンドと遭遇し、彼の家族と親しくなり、二人の罪は震災で許されたような感覚を覚え、チリに残ることにする。

震災後、教会がこれ以上の禍を避けるために祝祭ミサを開くことになり、ジェロニモとジョゼフェは、フェルナンド一家と教会に行くことになるが、聖職者たちは、今回の地震でさえ、ソドムとゴモラで起きたような道徳的退廃、蛮行が根絶できなかったことを述べ、ジェロニモとジョゼフェの冒涜行為を非難する。

取り囲まれた聴衆から暴力を振るわれる危険を、ドン・フェルナンドと彼の知人であるドン・アロンソの機転で一時免れるが、教会を出た後、荒れ狂う群衆を止められず、ジェロニモとジョゼフェは棍棒で殴り殺される。そして、罪のないフェルナンドの子供と義妹も命を落とす。

ドン・フェルナンドと妻は、ジェロニモとジョゼフェの赤ちゃんを自分たちの子供として育てていく決心をする…という物語だ。

一読して、全く隙のない短編小説に仕上がっていることに驚いた。
ある意味、老成した短編小説家が、冒険せず自身のテリトリーで腕をふるって書いたとさえ思うほどだ(この作品を書いた時、クライストは三十三歳)。

作者であるクライスト、物語中、この悲劇に対して自分の考えや思いを全く表明していないようにも思える。

ただ、わたしにはやはりクライストが背徳の罪を犯した二人の側に立っている印象を受ける。そして罪人でありながら、暴徒と化した世間から逃げず、堂々と立ち向かった二人の姿は、自分を理解し受け入れようとしない世間に対するクライストの思いを具現化した姿だったのではないだろうか。

2022年9月25日日曜日

デーモンとの闘争/シュテファン・ツヴァイク

ツヴァイクが、ヘルダーリン、クライスト、ニーチェをテーマに、三人の生涯には、人間の力を超えた魔人的(デーモニッシュ)ともいうべき共通点があったことを取り上げている。

住み心地のよい生活を捨てて情熱の破滅的な台風のなかに突き入り、命数に先んじて精神の恐ろしい惑乱、感覚の致命的な陶酔に落ち、狂死し、あるいは自殺し果てるという運命。
三人のうち、誰一人妻子を持たず、家財を持たず、永続的な職業、公務を持たなかった。現世における浮浪人、アウトサイダー、変わり者として、世間から軽侮され、無名の生涯を送った。

その原因を、 ツヴァイクは三人には根元的かつ本来的に生まれついた焦燥(デーモニッシュなもの)があったことを指摘している。この焦燥のために彼らは、自分自身から抜け出し、自分自身を超えて無限の彼方へ、根元的な世界へ駆り立てられる。しかし、デーモニッシュなもの(焦燥)が無限に満たされるためは、有限のもの、地上のもの、彼らの肉体を非常に破壊し去るほかに道はない。

中庸の人々は、この焦燥の衝動を自らのうちに抑えつけ、道徳の麻酔をかけ、仕事で紛らわし、秩序の中にせき止めてしまうが、焦燥は、とくに創造にたずさわる人々には、日々の作品に対する不満足という形をとって創造的に促進的に働き続ける力となる。

しかし、デーモニッシュなものをコントロールできず、その下僕となってしまうと、人生は常に危険と危機を暗示するあやしい雲行き、悲劇的な雰囲気、宿命に包まれる。

ツヴァイクは、三人と対称的に生涯を送った人物として、ゲーテを挙げている。
ゲーテは、人生のどこかでデーモニッシュなものと遭遇し、その危険性を認識し、創造活動において、その暴力的、痙攣的、火山的なものを否定し続けた。
彼に人生は、三人とは異なり、人生にしっかりと深く根を張り、裕福な邸宅に住み、妻子もあれば、孫もいて、確実な友人たちや女性たちがいつも彼のまわりを取り巻いていた。

ゲーテの創作活動が年とともに定着的・堅固なものになっていくのに対し、デーモニッシュな者たちは、ますます刹那的、不安定になり、狩り立てられた獣さながら地上を駆けることになる。

ゲーテの生活様式は丸い円となって完結しているが、デーモニッシュな人たちのそれは、放物線のように無限への急激な上昇、急カーブ、そして突然の急降下を示す。

ツヴァイクは、ゲーテと三人の創作様式についても、ゲーテはこつこつと貯金箱にため込むような資本主義的なものであるのに対し、三人は賭博者のように彼らの生存の全部を一枚のカードに賭けるようなものだったと比較している。

ツヴァイクが、ゲーテよりデーモニッシュな三人に強い共感を示しているのは明らかで、特にクライスト論はその傾向が顕著のような気がする。彼に対する自分の熱い思いが延々と語られ、客観的にクライストを分析しているとは言いがたく、加えて、ツヴァイクの文章は、粘着質で同じことを何度も何度も繰り返し表現を変えて描写しているせいで読みずらい。

しかし、クライスト論がツヴァイク自身の運命も物語っていたのではないかと思って読んでみると興味深い表現はいくつかあった。例えば、

クライストは、己が落ち行く先を承知している。はじめから知っている――奈落の底なのだ、と。

クライストの生涯は、…末路をめざしての急迫、血と肉感性、スリル味と戦慄のけだもの染みた陶酔を伴う、とてつもない狩猟にほかならない。

不幸のくりだすかなりの数の猟犬が、かれのあとを追って来る。狩り立てられた鹿さながらに茂みに身を投げる。にわかに思い直して、猟犬のどれかをとらえ、血祭りにすることもある――運命のさしむけた、いきり立つ猟犬どもの――下賤の者の手にかからぬうちに――いさぎよく一思いに、奈落の底にとびこむ。

  

2022年9月18日日曜日

圧迫/シュテファン・ツヴァイク

 この小説は、数年前だったら、主人公がこんな心持ちになったのは、ツヴァイクの特別な個性によるところだろうと片づけてしまった気もするが、今の日本において読むと、戦争になるとは、こういう風に国家に追い詰められていくのだなという現実(リアリティ)を強く感じた。

1920年の作品だから、おそらく第一次世界大戦のさなか。画家である主人公フェルディナントと妻パウラは、ドイツからスイスのチューリッヒに亡命している。

しかし、フェルディナントは故国からの呼び出しに怯え、自分の本来の意思に反するように、徴兵の兵役能力再検査のために領事館に出頭することを命じる紙を受け取ってしまう。

冷静で賢明なパウラに、自分の生命と自由を守るためには、絶対には行ってならないと説得されるが、フェルディナントは領事館に行ってしまい、これまた、自分の意思に反するような形で入隊の手続きをしてしまう。

絶望するフェルディナントに気づいたパウラは、度重なる説得と妨害を行うが、フェルディナントは故国へ向かう汽車に乗ってしまう…という物語だ。

フェルディナントは、知識人であり、戦争とそれを起こす政治家の蒙昧さを理解し、理性的に反抗できる資質があるにも関わらず、まるで自分の運命が国家からの命令書に記載された通りであり、これに抗うことはできないような心的状況に陥っている。

「まるで学校の生徒が先生の言葉で立上がるように立上がって…ぶるぶる慄えながら命令に従う」

「自分のものではない意志の鉄のぜんまいが身うちに動き、あらゆる神経を緊張させ関節までも引締めはじめた」

例えば、ロシアの善良な国民が(いや、ウクライナの善良な国民でさえ)、こうした目に見えない「圧迫」に押しつぶされ、戦地に向かっているかと思うと気が滅入る。

こんなことはかつての日本でも起きたことなのだ。
そして、その空気感が凍結された地面から死臭のように漏れ出しているのを、今の日本の時代の雰囲気から感じるからこそ、この作品のリアリティを感じるのだろう。

P.S. 石川淳の「マルスの歌」と似ている。この作品も2018年に読んだが、今読んだら、もっと刺さったような気がする。