2017年8月14日月曜日

鳥の涙 津島 佑子 近現代作家集 III/日本文学全集28

母親が子供を寝つかせる時に話す物語。
しかし、それは『おまえのお父さんはまだ帰らない』からはじまり、他国に徴収され、不在となった父が、頭のない鳥となって家族のもとに戻ってくるという、どこか呪術的な話である。

作者が母から聞いた『お話』は、祖母から母に伝わったものであることがわかる。

そして、作者は、その『お話』をアイヌの民話集に見つけ、祖母の出身地が青森であったことから、祖母がアイヌの少女と海岸で知り合い、この『お話』を聞かされた場面をイメージする。

実際には祖父は工場の機械に頭を押しつぶされ死に、父は若い女と出奔していなくなった訳であるが、祖母も母も無意識のうちに、この物語を子供たちに伝承していった。

作者も死んだ弟が頭のない鳥となって彼女を訪れる話を子供たちに聞かせはじめる。
祖父、父、弟の死を通し、自分の夫、そして長男でさえ、作者にはいつか失ってしまうのではないかという恐れを抱きながら。

はたして、彼女たちが子供に語った『お話』は、男たちへの鎮魂の意味が込められたものだったのだろうか。
ひょっとすると、そこには自分を置いてけぼりにした男たちへの深い深い恨みが込められたものだったのかもしれない。

この解釈は、作者が太宰治の娘だったことも影響していると思う。








2017年8月12日土曜日

連夜 池澤夏樹 近現代作家集 III/日本文学全集28

池澤夏樹の作品の特徴の一つは、現代と過去という異なる次元をむすびつけて、重ね絵のように物語に厚みを持たせる手法を用いるところだ。

それは、谷崎潤一郎や丸谷才一も好んで用いた手法でもあるが、池澤夏樹の場合は、彼らと違って雰囲気が軽い。

そう感じるのは、谷崎が母性、丸谷が前近代的な日本という重たい要素を重ねていたのに対し、池澤は、例えば最新作のキトラ・ボックスでは古墳の埋葬物という即物的なものを、そして、この「連夜」という作品では、南国の沖縄の琉歌を重ねているからだろう。

この作品、沖縄の病院で働く女医と運搬仕事をしていた青年が、女医の誘いで、十日間毎晩セックスをし続けたという一風変わった物語だ。

なぜ、突然、女医が青年と寝たくなったのかは分からない。ただ、十日間が過ぎて、熱が冷めたように彼らは別れる。

その後、女医はユタ(沖縄の霊媒師のようなもの)に、その時の話をしたところ、彼女は首里の王族に憑依されていたのではないかという話を聞く。そのきっかけは、彼女の名前の徳という字と、青年が花を作る仕事をしていたこと。

そして、 女医は探していた琉歌のなかに、身分の低い花当(花園係の役人)に恋をしたが、周りに気づかれ別れ離れになってしまった尚徳王女の歌にめぐり合う。
そういうことだったのかと思いました。真夜中に、君と一緒にいろいろ楽しいことをしたベッドに腹這いになって大きな琉歌の本を読んでいってこの歌に行き当たった時、不思議な気持ちになりました。いきなり何百年か前に飛んでいったみたい。君の身体が飛行機だったみたい。そのおかげで、本当にその尚徳王女さんが出てきて、私の横に同じように腹這いになって、昔々の自分の歌を読んで感慨に耽っている。辛かったでしょうねと私が言うと、そう、とても辛かった、でも、こっそりでも、ほんの短い間でも、会えた時の喜びだってよく覚えている、あなただって知っているでしょう、この間ちゃんと味わったでしょう、そう言っているみたい。

自分と同じような経験をした人、それが時空を超えた遠い昔の人であっても、その想いに共感する。
女医の新鮮な驚きは、文学の楽しみ方そのものに通じる。

池澤夏樹が選択した自身の短編は、実にこの日本文学全集に適った作品と言えるものなのかもしれない。


2017年8月6日日曜日

イシが伝えてくれたこと 鶴見俊輔 近現代作家集 III/日本文学全集28

短いエッセイだが、文明批評という大きなテーマを扱っており、なにより、イシと呼ばれる原住アメリカ人のエピソードが心に残る。

自分の一族を絶滅させた白人たちの世界で暮らしながらも、自分の価値観と知恵を持ち続け、同化しない。

そのイシを理解し、対等に付き合うことができた博物館長のアルフレッド・L・クローバーは、イシの死後、白人が原住アメリカ人に対して行った蛮行を思い悩み、その影響を受けた妻シオドーラは、アルフレッドの死後、「イシ」の伝記を書き、娘のアーシュラ・K・ル=グヴィンは、作家になり、「ゲド戦記」やSFを書いたというのも興味深い。

もう一つ興味深いのは、欧米文明との接触という点で、日本とイシの立場を比較しているところだ。
イシの場合には、弓も矢もほんとうに手にくっついたように動かせるのだが、そういう関係を我々は物に対して持っているだろうか。...
亡くなった高取正男が、「形見」という言葉を分析している。物を見て形を見ることができる。そうすると呼び戻せるという。ある物を形見にするというのは、その形を見る力を持っていなければ、母の遺品も形見にはならない。そういう力がおとろえていけば、形見は意味がなくなって、何の形見もない暮らしになっていく。その点では、イシの持っている世界に比べて、我々は明らかに貧しい。そのことは現代文明に対するイシの批評であり、イシを受け継いでいるル=グヴィンの批評なのだ。
イシは、欧米の文明に対して、自己選択の態度を保って対した。日本文化はそう対しえたか。それは疑わしい。
私は、まともに「ゲド戦記」を読んだことはなかったが、作品には欧米文明に対する批評が込められているらしい。

最近、カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」を読んでいて、これも一種の欧米文明に対する批評という気配を感じるが、同じテーマで、また、読みたい本が増えてしまった。