2018年4月30日月曜日

わたしを離さないで/カズオ・イシグロ

読んでいると、静かにだけれど、心が少しずつ揺さぶられるのを感じる。
この小説は、まっさらな状態で読むべき本だと思う。

あとがきも、文庫本の裏表紙に書いてある紹介文も読まず、いきなり、テキストを読む。
何の予備知識もなく、読み進めていくうちに気づいてしまったときの思いというか、痛みがこの本を体験するうえで一番重要なことなのだと思う。

そういう意味で、これは怖い物語だ。

私は、この物語の奇妙な背景と提供者の痛みをリアルに感じすぎてしまったのか、体調のせいもあると思うが、貧血を起こしてしまい、冷や汗をかきながら、電車を途中下車してしまった。

読み進めたくないけれど、物語の力で読み進めざるをえない。
そういうアンビバレンツな複雑な感情を生起させる。

こういう読書体験ははじめてだ。

2018年4月24日火曜日

七つの夜/J・L・ボルヘス

この本を読んでみようと思ったのは、文藝別冊の「須賀敦子の本棚」で、須賀敦子が書評で取り上げていた文章を読んだからだ。

その中で、「彼にはめずらしい、素顔のような率直さで語られている」という感想が述べられているが、私も似たような印象を抱いた。

この本は、ボルヘスが一九七七年に七夜に渡ってブエノスアイレスで行った講演が収められているが、そのストレートで明るいトーンの語り口は、「幻獣辞典」の作者は、こんな人だったのだろうかと思わせるものがある。

ただし、取り上げている七つのテーマは、「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」と、ボルヘスらしいものを感じる。

私が印象に残ったのは、以下の内容。

一つは、ボルヘスが見る「悪夢」の内容。
見知らぬ友人の手が鳥の足に変化していた夢や、彼の寝ている傍に、遠い昔のノルウェーの王がたたずんでいる夢に彼が恐怖を覚えたこと。
ボルヘスは、夢をもっとも古い芸術活動と呼んでいる。

そして、「千一夜物語」では、ボルヘスが考える東洋(オリエンテ)は、イスラム圏であり、その代表が「千一夜物語」であるということが明かされている。
(日本にとってみれば、イスラムが東洋という印象は薄い)

「カバラ」という聞きなれないことば。
これは、聖書が絶対的テクストであり、絶対的テクストにおいては偶然の仕業は何ひとつありえない、という考えに基づいているというもの。
通常は音から文字が生まれたという考え方だが、「カバラ」では文字が先であり、神が道具にしたのは、文字であって、文字によって意味を成す言葉ではないという奇妙な考え方だ。
このような聖書の教義があるとは知らなかった。

「盲目について」では、自身の盲目から生じる世界の色について述べられていて、興味深い。彼によると、盲人に欠けている色は「赤と黒」だという。そして、ボルヘスの場合は、黄色と青(もしくは緑)が現れる「居心地の悪い世界」に暮らしているという感想を述べている。
しかし、ボルヘスは「芸術家の仕事にとって、盲目はまったくの不幸というわけではない。それは道具にもなりうるのです。」と語っており、試練を前向きに捉えることができた人だったようだ。

難しいことを言ってるのだがそう思わせない口調の柔らかさが伝わってくる文章に誘われ、ついつい読み切ってしまった。



2018年4月15日日曜日

アメリカ 暴力の世紀/ジョン・W.ダワー

本書は、「敗北を抱きしめて」を書いたジョン・ダワーが、第二次世界大戦から、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争を経て、9.11以降、テロとの戦いと、常に軍事暴力に関わってきたアメリカを分析したものだ。

「ライフ」を創刊したヘンリー・ルースが発表した「アメリカの世紀」という言葉は、第二次世界大戦後、アメリカが世界で最も豊かで、強力で、影響力のある国家として世界の覇権を得るという意味だが、ジョン・ダワーは、その言葉は現在も生きていると述べている。

それは経済力だけでなく、軍事力においても顕著であり、アメリカは世界のほぼ70か国で800以上の基地を持ち、15万人の兵員を配属している。アメリカの年間の軍事関連予算は1兆ドルほどにもなっており、これは国防予算額で2位以下の8か国の予算額を合計したものよりもはるかに大きい。そして、軍事技術の精密な破壊手段の維持と最新化においても、アメリカに匹敵する国はない。

平和のイメージがあるオバマ大統領のもとでも、軍事化の貢献は止まることはなく、サイバー戦争と無人爆撃機ドローンによる暗殺の戦争技術が追求された。

ジョン・ダワーは、第二次世界大戦後も、アメリカは世界の武力紛争にずっと関わってきた歴史を一つ一つ例示していく。公的な海外派兵、国連・NATOの活動、代理戦争、武器輸出。アメリカの場合、それらはみな、いつも、平和、自由、民主主義という名称の下で行われてきた。

強大な軍事力と過度の傲慢さをもつ一方、深刻な被害妄想、失敗感、病的逸脱に苛まれている矛盾した国家。

本書では、アメリカの軍事的戦略の一つとして、1995年にアメリカ戦略司令部が作成した秘密メモの内容が紹介されていて、興味深かった。

そのメモには、核兵器だろうが、どんな大量破壊兵器であろうが使わせないように「敵の心理に恐怖をもたらすには何が最良の方法か」ということが書かれているのだが、そのためには、不確実性という状況を作り出すことが理想的であり、

「我々が過度に合理的で理性的であるというイメージを作り出すことは、自分たち自身を傷つけることになるのであり…アメリカ合衆国は、もしも自国の重要な利益が攻撃されれば、合理性を失って復讐にでるというのが国家的特性であるという印象を、いかなる敵にも示しておくべきである」と主張している。

このくだりを読んだとき、トランプ大統領のあの突飛な脈略もない非合理的な行動は、アメリカの軍事戦略的には是とされているのかもしれないと、妙に納得してしまった。

本書は、トランプ大統領の就任前に書かれたものであるが、日本語版にあたり、トランプ大統領に触れた序文が追加されている。

ジョン・ダワーは、トランプ大統領を、歴史を理解する能力に欠け、人種差別主義者、女性の侮辱、金と権力を持っていない他人と共感できない、科学と知的作業一般をバカにしていると、容赦ない言葉を連ねている一方、

トランプ大統領個人を恐れることより、むしろ、彼が主張する不寛容性と「アメリカ・ファースト」の愛国主義が、まるで世界の全般的状況のバロメーターのように、国際主義の拒否と世界的にみられる民族間、宗教間の憎悪、愛国主義的な憎悪と完全にマッチしていることの危険性を指摘している。

そのような時代にこそ、トランプのような扇動政治家で残酷な軍事力を重要視する人物が活躍できるのだと。

ジョン・ダワーは、序文で、日本についても語っているが、戦後、日本政府のみならず、日本の政治家たちが個人的にも、実質的にもアメリカの行動すべてを支持してきた事実を述べ、たとえ、日本国憲法の平和主義が変更されたとしても、アメリカ政府の指令に対する日本の従属と追従に変化が起きることは全くないだろうと、それどころか、

トランプと彼のアドバイザーたちが着手する新しい軍事戦略に、それがいかに思慮不足で好戦的なものであろうと「積極的に」貢献するようにとの圧力をますます強く受けるようになるだろう、という実に厳しい予言をしている。

おそらく、今の安倍政権は早晩もたないと思われるが、ジョン・ダワーの予言を覆すような戦略、気概を持っている政治家がまるで頭に浮かんでこないことが悲しい。

2018年4月8日日曜日

マルスの歌/石川 淳

須賀敦子が、石川 淳の初期の短編「マルスの歌」を気に入っていたというので、読んでみた。

これは、やはり、戦争前の奇妙な高揚感が漂う日本の社会の空気感を描いた小説なのだと思う。

文中、度々、現れる「マルスの歌」が、根拠のない高揚感に浮かれた人々の雰囲気とともに、主人公の意識を圧迫し続けている。

主人公の従姉妹、姉の冬子と妹の帯子の存在も対照的だ。

冬子は、息苦しい社会から意図的に隔絶した遊戯の世界に閉じこもり、その遊戯の中で自殺してしまう女性であり、帯子は、おそらくは姉の死の意味を理解しつつも、「マルスの歌」の高揚感に積極的に身を任せようとする。

そして、「マルスの歌」で沸き立つ人々の中で、やはり、作者と思われる主人公は、背を向けざるを得ない。

...『マルスの歌』に声を合わせるのが正気の沙汰なのだろう。わたしの正気とは狂気のことであったのか。

自分の正気が狂気のように思えてしまう時代。
いつも堂々と颯爽とした文章を書く石川淳には珍しく、しかし、妙に生々しくその苛々な感情は伝わってくる。

なお、この作品は、南京事件直後の時期に、その反軍国主義思想のせいで発禁処分となった。


2018年4月1日日曜日

関屋・絵合/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

関屋は、「蓬生」同様、光君が過去に関係を持った空蝉の話だ。

彼女は、夫の常陸介とともに任地に下ったが任期が終わり、京に戻ることになる。そのタイミングで、何の因果か、逢坂の関で、願掛けに来た光君の一行と出会ってしまう。

早速、空蝉に手紙を渡し、関係を再び持とうとする光君は、相変わらずの腰の軽さ。
空蝉も光君のことが忘れられないようで返事を書いたりするが、旦那が死んでしまい、その義理の息子から冷たくされたり、言い寄られたりで、結局、尼になってしまう。

この原因を作った言い寄った義理の息子が出家した彼女を心配するのを「まったくいらぬおせっかいというもの」と切り捨てる紫式部。

こういう継母に言い寄る義理の息子みたいな俗な話がこの時代にもうあったというのが面白い。

絵合は、光君と因縁めいた男女の関係だった六条御息所の娘 前斎宮を、帝の冷泉帝に輿入れさせる話から始まる。帝にはすでに光君と敵対していた弘徽殿大后の孫娘であり、光君と友人のような関係にあった頭中将の娘である弘徽殿女御がいる。

この閨閥めいた関係は、前斎宮と弘徽殿女御がともに絵合せで競い合うという状況に発展する。意地になる頭中将と、それを笑いながらも光君も自身が描いた絵を前斎宮に供出する。結局、光君が須磨に流されたときに書いた絵が皆の評判をさらい、前斎宮の側が勝ちを収める。

面白いのは、途中、「竹取物語」や「伊勢物語」「宇津保物語」など、「源氏物語」の前に成立していたと思われる物語の名前が出てくるところ。我々が本の挿絵や表紙の絵をみるように、当時の人々も物語のイメージを絵で補っていたのかもしれない。

しかし、この権勢が絶頂と思われる光君が、「静かに引きこもって、後世のために勤行に励んで、そして長生きもしよう」と思うところは、面白い。

栄華を極めていると、やがて没落して、死んでしまうのではないか、という恐怖心がよぎってしまう人間の弱さは、千年も前の人間も今と同じだったのかもしれない。

(写真は、小石川植物園で偶然見つけた花 光源氏)