水滸伝の作者の家には、障害のある子が生まれ、源氏物語の紫式部も、地獄に落ちたものと思われる。 二人とも、真実であるかのような迫力のある作り話で人を惑わしたからだ。というような序文である。
でも、自分が口に出してみたこれらの奇妙な話は杜撰なものだから、誰も本当だとは思うまい。
自分が罰を受けることはないだろう。
雨が止み、月が朧に照らす夜、原稿を出版社に渡すにあたり、私は、この物語を雨月物語と名づけることにした。
古人の才能を讃えながらも、才能のない自分には神罰は当たらないだろうと、しれっと述べている当たり、実に洒落ている。
おまけに、今で言う、フィクションの断り書きみたいなものだと思うが、最初から意気込んで読もうとする読者に対し、「あなた、こんなものを本当の話だと信じちゃいけませんよ」と人をはぐらかしているような印象を受ける。
しかし、その後に続く9つの物語は、円城塔の良訳のせいもあるだろうが、どれも現代の小説と比較しても引けを取らない腰の据わった構成と文章で描かれていて、怪奇、神秘を十分に感じさせてくれる。
私にとって、「雨月物語」は、それは、ずっと溝口健二の映画でしかなかったので、特に関連のある「浅茅が宿」と「吉備津の釜」、「蛇性の婬」を興味深く読んだ。
原作を読んで、奥行きがある物語なのだなと改めて感じさせられた。
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