2015年11月29日日曜日

水はみどろの宮 西南役伝説・抄 タデ子の記 新作能「不知火」 石牟礼道子/日本文学全集24

決して分かりやすい作品ではなかったが、これらの作品が再現している世界に憧憬を覚えた。
一度読みだすと立ち去りたくなくなるのだ。この世界から。

水はみどろの宮は、両親を亡くし、船頭の祖父と一緒に暮らす幼いお葉が、山犬のランと絆を結び、山の中に入り、森の霊主と思われる白狐のごんの守や、やはり霊力のある片耳の猫 おノンと交流するという話だ。

物語は、第5章 水はみどろの宮 から、幻想的な世界に傾いてゆく。
ここでお葉とごんの守が歌を交わし、互いに接触を深めてゆく様子が美しい。

六根清浄
六根清浄
水はみどろの
おん宮の
むかしの泉
むかしの泉
千年つづけて 浄めたてまつる
千年つづけて
浄めたてまつる

昔の世界のようでもあるが、文中、「六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある」という会話があるので、水俣以降の話のようにも思える。
幼稚なたとえだが、この作品には、宮崎駿監督が作った「もののけ姫」とどこか通じる世界観がある。

西南役伝説・抄は、熊本県阿蘇郡のいまは廃校となった上田小学校の沿革史を作るところから話が始まり、キリスト教徒の迫害の見聞、明治への時代の変化、そして、西南戦争を経験した大分と熊本の県境あたりの人々の伝承をまとめた作品だ。
農民のひとたちからすれば、西郷率いる反乱軍も官軍も、どちらに義理する理由もなく、どちらも等しく迷惑な存在だったことが伝わってくる。

タデ子の記は、戦争孤児のタデ子を引き取った女教師の話だ。女教師の家族や周りの人々が迷惑に思い、やがて、タデ子を手放さざるを得なくなる時が来る。
戦争孤児とは、こういう存在だったのかと思う一方、今日の世界ではたくさんの戦争孤児が生まれているのだろう。

新作能「不知火」は、石牟礼が書いた能の脚本だ。
龍神の姉弟が不知火の空と海を浄める仕事に殉じ、死して転生を誓う物語になっている。
きらきらとした漢字と切れのある文語体が組み合わさった美しい文章に詩情が湛えられているせいだろうか、実に神々しい雰囲気に満ちている。

ここにも「水はみどろの宮」同様、人間が汚した世界を浄める神がいる。

しかし、それは神でありながら、同時に、汚れた世界を受け止めた人々の声なき声の化身ではないのか。

石牟礼道子の作品は、自然と人間との関係という大きな背景に、弱者に立った人たちの声を拾い上げ、つむぎだしたものだ。それらの作品は、国境、言語を超えた力と普遍性を持っている。

実は、彼女こそ、この混迷した時代のノーベル文学賞にふさわしい日本の作家なのかもしれない。

2015年11月23日月曜日

シリーズ東日本大震災 追跡 原発事故のゴミ/NHKスペシャル

福島駅から南相馬市に向かうバスは、途中、飯館村を通る。
無人の村で、まっさきに目につくのは、黒い大きなごみ袋だ(フレコンバックと言うらしい)。

今年9月の関東・東北豪雨で、飯館村に仮置きされた汚染廃棄物が川に流され、中身が流出してしまったのは記憶に新しいが、今もその置き場所は何も変わっていない。田んぼの脇の空き地などに雨が降ると水につかりながら置かれたままだ(人による監視は強化されているかもしれないが)。

でも、大熊町と楢葉街にまたがる場所に広大な(広さは渋谷区に相当するらしい)中間貯蔵施設の場所が決定したはずではないのだろうか、と思う人もいるだろう。

しかし、この番組によると、貯蔵施設を作るには、2,365人の地権者の同意を取らなければならず、そのうち、14名しか同意が取れていないという絶望的な状況が説明されていた。

県外に避難した人の跡を追うことが困難であること、また、所有権の名義書き換えがなされていないため、明治時代近くの過去にさかのぼって、地権者の相続人を探し出す作業を続けているという。

いつ終わるのかの見通しは全く立っていない。
(私見だが、強制的に国が買い上げることができる法律を立法し、地権者には、一定の金銭賠償をするしかないと思う)

今、除染作業はかなり進んでいる。
しかし、除染作業で出た大量の汚染廃棄物を処分するための行き場はない。
仮置き場では収容がおさまらず、人家のそばの所々に黒いごみ袋が目につく。

中間貯蔵施設はこんな状況だが、最終処分施設に至っては、全く目途がたっていない。
日本国政府の方針は、8000ベクレル以上の指定廃棄物の処理は、各県の責任で進めるということらしいが、全国のどの県でも地域住民が徹底して反対しているから、一向に進展していない。

福島から離れた関東圏でも、廃棄物の問題は他人ごとではない。
横浜市では、8000ベクレル以下の廃棄物の処理も、埋め立てようとしたところ、住民の反対で処理ができず、保管管理している。(今までにかかった費用は26億円)

100ベクレル以下になるまで廃棄しないということらしいが、放射能の濃度が下がるのは150年ほどかかるという。

8000ベクレル以上の指定廃棄物を、一般ゴミと混ぜて焼却し、1㎏当たりの放射能を薄める“混焼”というやり方や、1300度以上の高熱で、ゴミから放射能を分離し、汚染ゴミの体積を二十分の一にする“減容”というやり方も模索されているが、事態の解決策にはなっていない。

 “減容”を提案している東大アイソトープの児玉さんが言っていたことばが重い。

「遠くのよそへ押し付けちゃえばいいっていう格好での大都市のエゴみたいなもののままでは片づかない問題があるんじゃないか」と。

そして、東京も、あの福島原発の電力の利用者だったのであれば、汚染廃棄物の引き取りについて、しかるべき負担を負うという考え方がきっと必要になる、と言っていたが、その考え方は筋が通っていると思う。

(これは、沖縄の基地問題と全く同じ構造ではないだろうか?)


原子力発電が低コストのエネルギーというのも、全くの嘘だ。
核ゴミの処分すら道筋が見えないことに加え、一度、事故が起きたら、途方もない労力と費用を払わされる。しかも、そのリスクを負わされる可能性が高いのは、今の大人たちではなく、子供たち以下の世代だ。

闇金融に金を借りた主債務者が借金をさんざんぱら使い倒して逃げ切り、その家族や連帯保証人がツケを払わされているのに似ている。

原発再稼働を推進している人々は、4年経ってなお、放射能に悩まされいてる福島の現実を直視すべきだ。

2015年11月15日日曜日

初めてのデート(再掲)

ジュールとシンシアが、夜明けの街を二人で歩く。

そんな風情が、パリには相応しい。

初めてのデートの時、相手がどんな服装で、どんな風に現れるのかは、やはり気になることだと思う。
だから、相手が現れる前に待ち合わせ場所に行って、ドキドキしながら考えているほうが、絶対に楽しいと思う。

映画「DIVA」のなかで、郵便配達員のジュールが、憧れているオペラ歌手のシンシア・ホーキンスと初めてデートをする時のシーンがとてもいい。

シンシアは、パーティーが別にあって、ジュールとの待ち合わせには来ないかもしれないというシチュエーション。ジュールがカフェバーで待っていると、彼女は笑いながら、夜店のアクセサリー売りの男を伴って現れる。
彼女が連れてきたというより、売り子が彼女の魅力に惹かれてついて来てしまったという感じだ。

シンシアが「お店ごと、買っちゃった」と笑いながらいうと、売り子は彼女を「アフリカの女王だ」と評す(シンシアは黒人です)。それに対して、彼女に恋しているジュールは「夜の女王だ」と訂正する。

私が、このシーンにとても惹かれるのは、シンシアの登場のしかたが意表をついていて、かつ、贅沢な印象を受けるからだと思う。

初めてのデートの時に、こんな風に彼女が現れたなら、まず間違いなく恋に落ちてしまうような気がする。

その後の、夜明けのパリの街を二人で歩くデートのシーンも、音楽・映像ともに、すごくいい。
映画「DIVA」のなかで、一番好きなシーンです。



2015年11月14日土曜日

椿の海の記 石牟礼道子/日本文学全集24


作者が熊本 天草で過ごした四歳までの記憶が濃密に再現された作品とでも言うべきだろうか。

普通の大人であれば、幼児期の記憶はおぼろげだ。ましてや、歳を経るにつれ、その記憶は失われていく。

しかし、石牟礼道子は、四十代後半になって、この作品を書きはじめたにもかかわらず、過去に彼女が生きていた世界全てを文章の中に再現するという、およそ不可能と思われるようなことを成し遂げてしまったようだ。

それは、五歳にも満たない“みっちん”が大人の道子の心の中に生き続けていて、当時、彼女が体験した天草の自然、人々、ことば、そこで起こった事件、思いを彼女と交感することによって、文書能力を身につけた大人の道子が再体験して書き上げたといっていいような完成度に達している。

もうひとつ、この作品が稀有だと思われるのは、彼女が再現した豊饒な自然に包まれ、その中で生き生きと暮らす良識のある人々のいる社会は、すでに喪われてしまった世界であるという事実だろう。

これは、ひとつの理想郷ではないだろうか、そう思ってしまうほど、“みっちん”が暮らす天草の世界は、人々の暮らしと自然が溶け合っている官能的な世界だ。

かつての日本には、そんな世界が実在していたのだ。

例えば、

…三角形の新聞紙の袋から、茶色いその飴をとり出そうとして、女籠の下の地面に落としてしまったりすると、春乃は、
「よかよか、今日は地(じだ)ん中んあのひとたちのご馳走ばい」
という。地の中のあのひとたちとは、蟻とか、もぐらとか、おけら、蛇などのたぐいをいうらしかった。

 …草むらのかたわらに、半ばは溶けた飴玉がころがっていて、その下に、お祭御輿さながらに寄り集まった蟻たちが、わっしょとそれを持ちあげながら移動している情景によく出逢った。わたしはそのゆくえが気にかかり、日が昏れて見えなくなるまで、ちいさなまるい飴玉の御輿の後をかがみ歩きしながら、ついて行くことがよくあった。蟻たちの担ぐ御輿は、鍛冶屋の裏の、大きな無花果の根元にもぐって行ったりした。風が吹けば厚みのある葉がばさりと落ちて来て、昏れてゆく枝の間から木の乳が降って来る。夏になれば蜜を保ちきれぬ果実が、したたるようにいくつもいくつも割れて来て、繁りあった葉の間をさしのぞいていると、幹のわかれ目のところに、くちなわが絡まっていたりするのだった。
(第三章 往還道)

2015年11月4日水曜日

口訳万葉集・折口信夫/百人一首・小池昌代/新々百人一首・丸谷才一/日本文学全集 2

日本最古の歌集である万葉集を国文学者であり歌人でもあった折口信夫が口訳した「口訳万葉集」。

藤原定家が編み、最も日本人に親しまれている和歌集「小倉百人一首」を詩人であり作家である小池昌代が口語訳し、読み解いた「百人一首」。

作家であり、批評家である丸谷才一が、五十歳を過ぎてから二十五年かけて自ら編んだ「新々百人一首」。

読み比べてみると、なるほど、これはうまく配列されているなという感じがする。

折口信夫の「口訳万葉集」は、万葉集のどちらかと言うと、ストレートな朴訥な歌を、子供でも分かるように平易な言葉で語りかけるような言葉遣いで訳されている。

例えば、
しるしなく 物思はずは、一杯(ひとつき)の濁れる酒を 飲むべかるらし

(訳)役にも立たないのに、色々考え込んでいるよりは、一盃の濁った酒を飲んだ方がよいにきまっている。
春日すら、田に立ち疲る君は悲しも。わかぐさの妻なき君は、田に立ち疲る

(訳)ただ一人春の田に立って、一所懸命に働いているお前さんはいとしい人だお前さんは、妻もなしに、この長閑な春の日を、田で働いている。
折口信夫の小説「死者の書」は難解だったが、この「口訳万葉集」は、とても分かりやすかった。

佳作、傑作など、深い理由を述べず、バシッと評価を決め打ちしているところも面白い。

そして、小池昌代の「百人一首」は、実にオーソドックな口語訳と解釈だと思う。 万人向け。
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな/素性法師

 (訳)
すぐに逢いにいく
そうあなたが言ったばかりに
待っていたのですよ
なのに 待って 出会えたのは
九月の空の
有明の月
あなたではなく
 「あなた」が結局来なかったので、こうして、明け方の月を仰ぎ見ている今、自分はまるで月を待っていたかのように月と出会っている、というわけである。月と目をあわせている図は、なんだか、とてもユーモラスだ。女(作者)の視線は、男ではなく、とりあえず月に向かっている。そこに余裕がある。
歌人の素性や生涯にも触れていて、若干、教科書的な印象でもあるが、それは、あの折口と、あの丸谷に挟まれているのだから、仕方がないだろう。

丸谷才一の「新々百人一首」は、和歌を深読みして、そこまで深読みするのかと思うほど、丸谷らしい独自の解釈を執拗に述べているところに特色がある。(これは、読む人によってかなり好き嫌いがあると思う)

印象的だった箇所をあげると、後深草院二条の和歌

ひとりのみ片敷きかぬる袂には月の光ぞ宿りかさぬる

を取り上げ、二条のパトロンである後深草院と恋人 藤原実兼の三角関係を述べたところだ。理知的な英文学者が評した鋭利な刃物のような印象が残る。
 彼らにとって、互いに黙認しあうこの三角関係は、普通の恋よりも情趣に富むものだったのである。それゆえ二条の返歌は、うわべはいちおう言いまぎらわす体裁でありながら、しかし内実では密通を認めるという、入り組んだ形で詠まれなければならなかった。
 そういう作歌術は王朝和歌では珍しいものではない。第一に和歌は社交の具でありながら、しかしそれよりもさきに本心を述べる形式であった。第二にそれは三十一音で、極度に短かかった。そして第三に、本歌どりや歌枕など、韜晦のために好都合なレトリックに不自由しなかった。これらの条件が重なるとき、真実と偽りを二つながら表現する詩が可能になったし、それゆえこの種の書簡詩の受信者は、普通、その二つの層を理解する解読の方法を身につけていたのである。
それと、 「小倉百人一首」の、あの有名な一首

秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみわが衣手は露にぬれつつ/天智天皇

の和歌を取り上げ、
ふつう、天皇が農事の辛さを思いやった歌とされているが、それはいはば表で、その裏には、女に身をやつしての、「農民の袖のようにわたしの袖は泪に濡れている――あなたに飽きられて」という閨怨の歌、恋歌が秘められてあるに相違ない。
 と、仰天するような解釈をしている。

この三者三様の和歌の解釈を比較するだけでも面白い。
しかし、たった三十一文字で、ここまで語りつくせる和歌の世界は奥深いですね。