吉田健一は、まずもって、その特異な文体に、彼の特質の全てが現れている。
句読点がなく、whichやthatなどの関係代名詞で繋がれている“節”の固まりが複数組み合わさったcomplex sentenceと呼ぶのがふさわしいような長文。
「英語の文章になじんだ人が日本語で文章を書き始めて一つの完成に至ったのが吉田健一氏の文章である」と、作家の倉橋由美子は評していた。
その独特の息の長い文章は、落ち着いた、浮ついたところのない一定した速度と持続性を持つ彼の思考の姿を如実に反映していたような気がする。
この文体をもってしなければ、「ヨオロッパの世紀末」という作品においてなされている途方もなく奥行きが深い西洋文明の解析はなしえなかったのではないだろうか。
要点だけ掴んで早く読み終わろうと気が急いている人には、全く、向いていない文体だと思う。
読んでいて彼の文章が理解できないとしたら、それは、その読んでいる人の集中力が不足している可能性が高い。作者は、そういう気の早い読者を拒絶しているのだ。
実際、この「文学の楽しみ」で、作者は「文学はただ文学として楽しめばよい。そこに、神だとか、教養だとか、他の何かを求める態度は間違っている」と単純明快に文学に副次的ななものを求める姿勢を排除している。
それにしても、吉田健一の語る文学の射程は広い。
彼の語るヨオロッパは、まさしく西洋そのものであり、時折対比する東洋(中国)文明についても奥行きが深い。
そして、時々に引用する詩のクオリティも高い。
実はこの人は詩の翻訳が一番優れているのではないかと思ってしまうくらい、シェイクスピアの十四行詩(ソネット)は素晴らしい。
中原中也や、梶井基次郎の小説の引用も、おやっと思うような読ませるものが引用されていて、ひと言でいうと、とてもセンスがいい。
この「文学の楽しみ」でもっとも印象に残ったのは、「生きる喜び」の章だ。
ここでは、明治以降の日本の自然主義文学を徹底して批判しているのだが、一読して、まるで丸谷才一の考えと同じじゃないかと思ってしまった。
日本文学全集のあとがきで、池澤夏樹が二人の文学に対する考えはとてもよく似ていると書いていたが、この生まれも育ちも違う二人が期せずして西洋文学の本質を深いところで学び、そのせいで、いかに明治以降の旧来の日本文学の姿勢と屹立していたか、そして、今やこの二人の文学観をベースに日本文学全集が編まれているということに時の流れを感じざるを得ない。
この変化の流れは、戦後急速に進展したグローバル化の影響もあると思う。
読者は、日本文学にかぎらず、輸入されてきた海外文学を読む。
世界でも通用する共通の価値観。そういう価値観をベースにした魅力的な日本の文学作品が出やすい土壌を吉田健一と丸谷才一は作ったのだと思う。
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